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街道ウォーク 日光街道 その9

日光街道 その9 古河→間々田

日光街道その9は、古河→間々田を歩きます。
距離は17,9Km、所要時間5:12時間 23,818歩、消費カロリー2459kcal

古河→野木

長かった夏も終わりやっと秋の気配が感じられるようになり街道歩き再開です。4か月ぶりに古河駅に戻ってきました。今日はあいにくの雨、久々のロングウオークで少々不安も残りますが頑張って間々田宿まで歩きますよ。

右手に見えてきたのは「塩滑地蔵菩薩」の石柱、奥にお堂が見えます。全国でもよく見られる、自分の患部と同じ場所に塩を塗るとご利益があるというお地蔵さん。お地蔵さまはお堂の中、塗ることはできませんでした。

塩って昔は専売公社でしたが若い方は専売だったことは知らないでしょうね。伯方の塩が供えられていました、これは輸入塩。国産の天然塩の方が効き目がありそうな気が。

塩滑地蔵菩薩 お堂

街道を進むと野木の交差点。手前に「野木神社」の鳥居があり長い参道が奥の方へ続いています。野木神社は蝦夷を平定した征夷代将軍、坂上田村麻呂が都へ凱旋途中に社殿を造営したと伝えられているそうです。境内にある大イチョウはとちぎの名木百選、雨に濡れた姿も美しいものです。

野木神社

江戸より十七里の「野木の一里塚跡」の案内を過ぎると、道路わき、角に立っている石塔は「太平山道標」、是より太平山道と刻まれています。栃木宿で例幣使街道へ通じており太平山神社へと通じる道、日光山近裏道と呼ばれた脇往還道入口となっています。

太平山道標

小雨交じりの街道、この先も雨雲が立ちこめていますが小康状態が続き大事には至っておりません。さらに進んでいくと立派な「長屋門」が見えてきました。寝泊まりが十分できそうな大きさ、門じゃなくて、もはや家、それも我が家より大きい。敷地も大きく歴史と文化が感じられる貴重な存在です。

長屋門

ここで、街道を右手奥に向かって「高良神社」に向かいます。源頼義が主祭神の武内宿禰命を祀ったのが始まりといいますから1000年以上の歴史がある神社。一の鳥居から続く静かな参道、年代物の狛犬、大きなケヤキも存在感があり境内は凛とした雰囲気が漂っていました。

高良神社 拝殿

道路わきの馬頭観音を確認して進むと真言宗「法音寺」と刻まれた寺柱、地蔵山の扁額がかかる立派な山門、その奥には長屋門も見えます。本堂横にはケヤキの巨木、朱色の地蔵堂や鐘楼も存在感抜群な様相です。「弘法大師像」の後ろには大きな彼岸桜もあり、春には美しい花を咲かせてくれるそうです。

法音寺 山門

野木→間々田

小山市に入りました。鳥居と石灯籠、祠、後ろの大木は榎でしょうか、こちらが「乙女の一里塚」日本橋から十八番目となります。「乙女」はこのあたりの地名、素敵な地名ですよね。「〇〇さんは、どちらにお住まいですか?」、「私は乙女です」。このような会話が成立するんでしょうが、少し恥ずかしい気もしますね。

乙女の一里塚

先には「若宮八幡宮」です。雨に濡れた芝生の緑、奥の銀杏の巨木の緑もとてもきれいです。鳥居をくぐって先へ進むと左手に「大日如来坐像」が屋根に覆われて大切に安置されています。1709年に建立されたものですが、露座だったため酸性雨に晒されて一部損傷が見られたそうです。

若宮八幡宮 大日如来坐像

道路標識には東京から70kmの文字、今回で日本橋を出てから9回目、このような節目が確認できるとモチベーション上がります。思えば、我ながら老体に鞭打ってよく頑張りました。営業時代を思い出します、数字は足で稼ぐもの!昭和の営業あるあるです。ここにきて役に立つとは、現役時代はあまり役に立たなかったのに。。。

東京から70km!

「村社八幡宮社標」から「乙女八幡宮」へと長い参道が続いています。まずは石造りの明神鳥居、鳥居に刻まれた銘文から、思川沿いに開けた乙女河岸の商人から崇敬されたとあり小山市指定文化財です。

主祭神は誉田別命、鎌倉時代創建の乙女村の鎮守として堂々たる社殿、例祭には江戸の本相撲が勧進されていたそうです。こちらも時代を経た狛犬が睨みを利かせています。

乙女八幡宮

この先にある思川の乙女河岸、関ケ原の戦いで有名な小山評定のあと家康はここから乗船して江戸に下りました。東照宮造営の際も江戸からの資材はこちらから運ばれたという歴史に名を刻む場所です。

住宅街を思川方面へ進んでいくと小山市立博物館の裏手が「乙女不動原瓦窯跡」。瓦を焼いた4基の窯のほか、工房や粘土採掘抗、集積場などなど遺構が発掘されています。こちらの瓦は下野の薬師寺や国分寺などの寺蹟から出土した瓦と共通した特徴をもつとありますから、国家事業を支えた重要な場所なんです。

乙女不動原瓦窯跡

先へ進むと朱色の鐘楼が目に入ってきました。「泉龍寺」、乙女不動尊の文字が刻まれた寺標、日光中禅寺湖の湖中より発見された大聖不動明王が不動堂にまつられています。また、不動塚の岩清水の霊泉でご分身の「水掛け乙女不動尊」のご身体を清めれば病苦除去とあり、延命の泉が湧いていました。しっかり清めさせていただきました。

泉龍寺 山門

街道に戻り「龍昌寺」に向かいます。朱塗りの門が素晴らしく、くぐると左に同じく朱塗りの不動堂、右には鐘楼、正面に大きな屋根の本堂、「十九夜塔と不動尊像」など広々とした綺麗な境内に背筋も伸びます。朱色は格式の高さを感じさせますし、魔除けや不老長寿を象徴する色、惹かれるな~。

龍昌寺 不動堂

縁起には、不動明王に寝起こされた、衰弱がひどくこの地で足が動かなくなった模庵和尚、尊像を拝むと杖も使わず立ち上がれたといいます。そこで、人々は「寝起こし不動尊」と呼び、お堂を建ててお祀りしたとありました。

また、家光公を日光へ葬送途中、こちらに一夜御宿棺、御朱印賜るともあり由緒ある寺院でもあります。

趣のある酒屋さんは「さやま酒店」、大きな屋根が特徴的な商家作り、男の酒「じゃまつり」の看板が気になります。蛇祭りは「じゃがまいた」と呼ばれ、竹と藁で作られた蛇が町内を練り歩く間々田の祭りだそうで、国重要無形民俗文化財に指定。このお酒と共に盛り上がるんでしょうね。

さやま酒店

今日はこのあたりで終了、間々田駅へ戻ることにします。途中、日光街道中間点「逢の榎」の看板と石碑があります。間々田宿は江戸、日光から、それぞれ十一番目の宿場、距離もほぼ十八里の中間点に位置しているそうです。

「間の榎」は「逢いの榎」と呼ばれるようになり縁結びの木として信仰を集めるようになったとあります。ここで中間点、やっと半分、うれしいような悲しいような複雑な気持ちになりつつ元気を出して駅に向かいます。

逢いの榎

大きな蔵が見えてきました。「小山市車屋美術館」とありますので入ってみましょう。時間もないので美術館は諦めて、登録文化財の「小川家住宅」のみ入館させていただきました。小川家は乙女河岸で肥料問屋として広大な敷地を思川沿いに所有し商いをしていた車屋、小川商店です。

小川家住宅

小川家は物資輸送の中心が舟運から陸上輸送に入れ替わる明治時代末に河岸から、こちら日光街道沿いに移転されたそうです。時代に合わせた先読みの対応が商いの基本であることは、今も昔も変わりませんね。

本日のゴール「間々田駅」到着、久々の街道歩きと悪天候でしたが無事到着して一安心、晴れ間も出てきました。ローカル感満載の駅舎は癒されます。

間々田駅

神社仏閣の由緒には徳川にまつわる話の他、時代が平安までさかのぼり坂上田村麻呂、武士の祖といわれる藤原秀郷、平将門、源頼義などが登場。後の平清盛や源頼朝にも続いていく日本の壮大な歴史の流れを感じます。奥の細道とは違った日光街道の魅力を感じることが出来る街道歩きでした。

次回は日光街道シーズン1のゴール、小山宿へ向かいます。

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