藤井道人監督と横浜流星の“強力タッグ“から生まれた傑作〜映画『正体』〜
「信じる」ということの難しさと尊さを、見事に描ききった映画『正体』を観てきました。
ヨルシカの『太陽』が流れるエンドロール。この映画の番宣で、主役・鏑木慶一を演じた横浜流星が口にしていた監督・藤井道人との関係性。
「まだ共に何者でもなかった頃に意気投合して、そこから切磋琢磨してそれぞれ力をつけて作り上げた集大成」
…そう横浜流星は言いました。まさにその言葉にふさわしく見ごたえある重厚な作品で、映画のラストとヨルシカの歌声と横浜流星の言葉を思い出して、しばらく涙が止まりませんでした。
帰り際至る場所ですすり泣く音が聴こえてきて、こんなにも余韻が残り続ける映画もなかなかないと思いながら劇場を後にしました。
横浜流星と藤井監督との信頼感がなければ撮れなかったと感じるシーンは多々あり、特にアクション・シーンは横浜流星ならではでした。
林修の「インタビュアー林修」の中で、横浜流星は何度も役を「演じる」のではなく「生きる」という言葉を使っていました。「自分を消す」…すなわち与えられた役の人生を愛し、誰よりも理解して「生きる」という姿勢が、今回の鏑木慶一という人間そのものとダブって見えました。
逃げ回る生活は常に恐怖との闘いで、そこには焦燥感も疲労感も伴う心の痛みがある…その鏑木の心の内までもが手に取るようにこちらに伝わってきました。
ときに絶望や凄みを、ときに喜びや優しさを…鏑木慶一の真実がどちらの「顔」なのかと、途中まではかりかねる絶妙なさじ加減の横浜流星の演技に終始圧倒され続けました。
ただ鏑木の“泣き顔“だけは子どもに返ったような″幼さ″が垣間見えて、涙を流しているときだけは“素の鏑木慶一“に戻れる唯一の時間のように感じました。
そして、横浜流星の目。あの凛として澄み切った目は純粋な心の持ち主であろう鏑木の象徴であって、実は彼は罪を犯してはいないのではないか?と、そう信じさせれくれたような気がしています。
わずか18歳で一家惨殺事件、通称「鏑木事件」の容疑者として逮捕され死刑判決を受けて脱走に成功した鏑木。彼は名前を変えて風貌を変えて経歴を偽り、日本全国に潜伏しながら逃走し続けました。
「やらなければならないことがある」
そのたった一つの想いを胸に、どんな窮地に立たされてもただひたすら逃げ続ける鏑木…横浜流星の必死な姿に何度も胸が締めつけられました。
この映画は、キャストの皆さんの演技のクオリティーの高さも圧巻でした。
大阪府住之江区で工事現場の従業員、通称“ベンゾー“として働いていた鏑木。そこで出会った、ギャンブルで借金まみれの“ジャンプ“こと和也を演じた森本慎太郎。
ドラマ『だが、情熱はある』で、南海キャンディーズの山ちゃんを演じた森本くんの完成度の高さに驚かされて以来気になる存在ではありました。今回の和也役はあまりにもハマり役で、俳優としての伸びしろにこれまた驚かされました。
“ベンゾー“が逃亡犯の鏑木と気づき、懸賞金300万円のために警察に通報した“裏切り“はあったものの、鏑木にとって和也は心を許せる友だちだったことは間違いなかったと思います。
父の“えん罪“とも闘っていた「メディアトレンダーズ」の記者安藤沙耶香役の吉岡里帆。「あぁ、吉岡里帆っていい俳優なんだなぁ~」が率直な感想でした。万能なフリーのWebライター“那須くん“として、東京で働いていた鏑木。その“那須くん“をそっと包み込むような沙耶香の母性溢れる優しさで、どれだけ鏑木が救われたかと思います。
沙耶香役を誰が演じるかでこの映画の出来が大きく左右されたと思うし、そういう意味では吉岡里帆で大正解だったと思います。
沙耶香の「君を信じる」という言葉に涙した鏑木の心情と沙耶香への淡い恋心を思うと、切なくてたまりませんでした。焼き鳥屋の二人のシーン、心に刻まれています。
水産加工工場では、被害者遺族で事件の唯一の目撃者・井尾由子の妹・浩子に近づく目的で、まぶたを一重にして鏑木は“久間“として働きました。
長野の介護施設「ケアホーム・アオバ」では、“桜井“と名乗り介護職員として働く鏑木がいました。この「アオバ」にたどり着くことこそ、鏑木の最後の目的だったんですね。
東京で美容学校に通い、漠然と美容師になろうと思っていた山田安奈演じる舞は、夢破れて故郷に戻り介護職員として働くことに。
そこで出会った“桜井“に憧れて恋をしたものの、入所中の由子に「由子さん、思い出してください」と声をかける“桜井“の姿を目にしてから疑問がわきます。さらに自分のアップした“桜井“の動画が「鏑木慶一に似ている」と騒がれ始め、警察にもそれが知られてしまいます。
この舞の複雑な心の揺れ動きが、山田安奈の瑞々しい演技によってリアルに感じられました。
そして、なんといっても警視庁捜査一課の又貫征吾を演じた山田孝之。俳優・山田孝之の存在感は圧倒的でした。鏑木を執拗に追いつめながらも、「鏑木事件」の模倣犯として逮捕された足利清人に「模倣犯ではない」とつぶやかれて、「鏑木事件」がもしや“えん罪“ではないかと疑念を抱く又貫の刑事としての苦悩は見ていて痛いほどでした。
成人年齢が18歳に引き下げられ、18歳だった鏑木の厳罰は「少年犯罪の抑止」に利用すればいいと松重豊演じる刑事部長・川田から言われて、適正な捜査もせずに従ってしまった自分への苛立ちも感じられました。
又貫が上司の意向に背いてまでも「鏑木事件」が“えん罪“という可能性を示唆する決意を固め、結果再捜査に踏み切られることになったのは又貫自身の″正義の賜物″だったと思います。
映画の最後に、又貫、沙耶香、和也、舞。四人と鏑木との面会シーンが描かれましたが、ごく短い時間ながらも重要なシーンでした。
沙耶香は「終わったら全部聞くから」と優しい言葉をかけ、和也は資格の勉強を始めたことを伝え「終わったら飲みに行こう。俺たち“ダチ“だろ?」と。人生流されていた舞は、逃げずに自分と向き合うことにしたと伝えました。
パンフレットによれば、鏑木と又貫の面会室での会話をカットするか藤井監督が迷っていたと書いてありました。鏑木が自分の想いを吐露するところが、いかにもセリフっぽくて…と。
でも横浜流星が残してほしいと言ってあのシーンは残したらしいんですが、あのセリフがあったことで横浜流星が伝えたかった「希望を信じ続ける…鏑木のまっすぐさは、いまを生きる人々にとって大切なものになるのではないかと思った」という想いがより強く印象づけられたように感じます。
「なぜ逃亡をした?」と鏑木に尋ねる又貫。
「信じたかったんです、この世界を。この世界を、正しいものは正しいと言える世界だと。 外に出て友だちができて、仕事をして、生まれて初めて好きな人ができました。 生きてて良かったって思いました。そしてもっと生きたいって思いました」
この鏑木のまっすぐな想いこそが出会った人々を巻き込んで、又貫という刑事の正義に火をつけて、“えん罪“がくつがえる大きな原動力になったんだと思います。
原作者の染井為人氏が「小説では書かなかった警察の良心と、鏑木が死なない結末。原作者として、救われた思いでした」と語ったそうですが、原作と映像作品のこれほどまでのウィンウィンの関係もないでしょうね。
文字で読むのと映像とでは異なる面が生じるものだと思いますが、結末の違い以上に映像でしか描けなかったものが確かにそこにあったような気がしています。もちろん原作も読みたいと、映画を観た今思っています。
“えん罪“という言葉を聞くと、どうしても「袴田事件」が思い出されます。いくら無罪が確定しても、失われた暗黒の時間はもう取り戻せない…。
鏑木が失った時間もさまざまなものも、確かに取り戻すことはできないかもしれません。それでも″未来への希望″がある限り、鏑木がここから力強く生きていけると信じられます。
鏑木は人生をやり直し、夢だった弁護士を目指すんでしょうね。さぞや、いい弁護士になると思います。
映画『正体』は、サスペンスでありながらも心震える超感動作でした。劇場の大きなスクリーンで観ることをオススメします。