ドラマ『笑うマトリョーシカ』最終回。人間はいくつもの顔を隠し持って生きているのかもしれない…
最終回を迎えたドラマ『笑うマトリョーシカ』。こちらの予想を見事に裏切り続けてくれた先の読めないストーリー展開に、最後まで楽しませてもらいました。
「清家一郎を背後で操る”ハヌッセン”が誰なのか?」がずっとドラマの焦点でした。清家の秘書だった鈴木、清家の母・浩子、大学時代の恋人・亜里沙。考察される”ハヌッセン”候補が次々と脱落し、第10話が終わった時点で私の中でもしや…?という考えに行きつきました。
最終回での答え合わせとしては正解でした。”ハヌッセン”など最初から存在しなかった…清家一郎本人が誰かに操られるフリをしながら、逆に相手を利用していたというのが真実でした。
清家と道上が対峙した時、それまでおかしくもないのにいつもの薄ら笑いを浮かべている表情から、一気に怒りの表情に切り替わったのは鳥肌が立って背筋がゾクッとしました。これが本当の清家一郎という人物なのだと。
道上が、清家の”ハヌッセン”は実の父・和田島ではないかとたずねると「父は”ハヌッセン”なんかじゃありません。唯一の理解者であり、僕の目を覚ましてくれた同志です」と。操ろうとしてくる人物に対する接し方を、和田島から学んだと告げました。
信頼していた道上に対してさえ「僕には“ハヌッセン”がいて、僕はその人のために日々職務にあたっている。そう…決めつけた」と、敵対視するかのようににらみつける姿がそこにありました。
和田島もまた清家と同じ特性を持った主体性のない中身が空っぽの人間で、そういう意味では親子としての血のつながりは濃かったということになりますね。
自分をコントロールしようとする人間たちを逆に利用して、相手が一番ダメージを受けるタイミングで切り捨てる…真の清家一郎という人間の恐ろしさに愕然とさせられました。
「見くびられたくない」
この言葉こそ、清家の心の叫びだったのかもしれません。ただ「自分で自分が分からない」という清家という人間の”もろさ”や”弱さ”もまた一方で感じました。
「見くびるな」という周りの人間たちへの”怒り”が清家一郎という政治家を作り上げ、総理大臣のイスという夢を手に入れられるところまできたわけです。でも清家自身は終わりの見えない自分探しをしながら、いつも孤独をかみしめている哀れな人間に映りました。
道上には断られてしまったけれど、元々は存在しなかった”ハヌッセン”という強力なブレーンが、今こそ自分の傍にいて欲しいと本当は願っているような気がしました。
マトリョーシカの一番小さい人形を「僕の目には怒りにかられているように見えるんです」と言った清家。道上は「私には泣いてるように見えます。その人形」と。私も道上に賛成でした。いつも作り笑顔の仮面をかぶり演技をし、自分が分からないまま生き続けてきた清家の心は、実はずっと泣いていたのではないかと感じました。
第1話で道上に清家が「これからも僕のことを見ていてくださいね」と言ったのは、道上が感じた通り助けを求めていたからではないかと思います。
いくつもの顔を持つマトリョーシカの人形は、清家一郎そのものだったんですね。最後に一人マトリョーシカの人形を急いでしまいながら涙した清家。自分のことを見透かしたような道上の言葉を、人形と一緒にしまい込んだように感じました。
でも最後に道上が「あなたも怖いんじゃないですか?自分のことが…分からないことが。清家さん、私はあなたを知ろうとすることをあきらめません。それがあなたを救うことになると信じている」と言ってくれたことは、実はそれからの清家にとっては心強い言葉だったのではないかと思いました。
たった一人でも自分の真の姿を見ようとしてくれる誰かがいる…コントロールするわけでもなく、自分をただ理解しようとしてくれる誰かの存在が心の支えになったのではと。
ヒトラーについて清家が語った言葉。
新しい総理大臣が生まれようとしている今の日本。新たなリーダーはどんな風に日本を変えていってくれるのでしょうか。
ドラマ『笑うマトリョーシカ』。人間はいくつもの顔を隠し持って生きているのかもしれないと感じさせられた、なかなか凄みのあるラストでした。続編も期待できそうな気もしました。