魔法は解けてしまったけど 現実は続くし繋がっていく 早く「なんであんなことで悩んでたんだろう」っていう所に行きたいなと思うけど、悩み抜かないとそこへ行けないことも知っている。簡単に忘れられる感情なんて、そもそもたいしたものではない。夏のアスファルトに堕ちた通り雨のようには乾いてくれない。だってもう秋だから。 雨の街で泣いている木を見つけた。期待したり求めたりせず、ただ通り過ぎていけばいいのに、足を止めるから見つけてしまう。だけど私は哀しい色を見ぬふりができない。だってこ
ある夏の日、私の住む街で花火大会があった。 以下その日の記録。 雨が降る中でスタジオへ向かう途中、渋滞の車内で花火をぼんやり眺めた。天気が悪くてあまり良く見えなかったけど、ときどき雲がピンクやグリーンに光っていて、あの中に花火が咲いているのだなぁと嬉しくなった。すると雨が降ってきて、それに負けないように花火師たちが空へ夏を打ち上げていて、だんだん雨粒も花火みたいに光っていた。雨が上がったあと、散り際の花火が風で散らばって流れ星みたいだった。願いごとはしなかった。 こうして
過去の私が教えてくれる、何年たっても繰り返す感情とその度に思い出す景色と、その確認作業。 #記録 と #記憶
ふいに、古くからの友人が帰省してきた。 彼女はいつも突然やってくる。 二人でジャズバーに行って、彼女は辛いお酒を飲み、私は隣でジュースを飲み、最後に二人でひとつのパフェを食べた。みんな帰ったあと、ピアノを弾いたり唄ったりして遊んだ。 明るくてポジティブで、笑顔が可愛くて、天然なのに、芯があって強い。いろいろな場所を飛び回って、この前はどこかで滝に打たれたりして、その行動力たるや、眺めているだけで思わず笑顔になってしまうような素敵な女の子。とっても昔のことだけど、そんな彼女と
陶芸教室に30年通う祖母の作品たち。実家へ帰る度に「遺作になるかもしれないから持って行け」と半ば無理矢理に新作を持たせ続け、死ぬ死ぬ詐欺をしながら長生きをして親族らを楽しませてくれる。(増えすぎて、母がこっそり裏山に捨てているらしいが、祖母本人も捨てていると言っていたので、うちの裏山から大量に焼き物が発掘される未来が約束されている) ご覧の通り、祖母に繊細さはなく、不器用で大雑把な性格なので、30年やっても上達しているとは言えない。が、「手本の通りに作るのがつまらないから」
思い出ってこんな風に増えていくと一コマずつが小さくなって、年月を重ねるとそれが点になっていくことなんだなと思った。 ふいに聴いた音楽とか、香ってくる匂いとかで、急に一点にフォーカスされる。本当は他にも美しい場面がたくさんあるのに、そこに釘付けになって過去から動けなくなったりする。 たとえ点になっても、それが映画みたいに連なって人生になるのであれば、目に見えてなくてもかまわない。たしかに、その時そこにあった。 だから、忘れるのではなく離れるだけ。 #記憶 #記録
シーツの海、とは上手いこと言ったもので、それは一人だとしても二人だとしても、夢の中を泳いだ形跡である。何度洗濯をして平らに直したとしても、この世界から離れてそこを泳ぐことを人はやめない。その度に揺さぶられて、ついには立てなくなったりもする。 室外機から漏れる水の流れを眺めながら、青空に立ち昇る煙を眺めながら、寄せては返す思考の波を、静かに渦巻く感情を抑えられずにいる。 哀しくも寂しくもない、でも楽しくもない。 それは日が高く昇ろうとも、夜の果てに墜ちようとも、そういう時は止
#記憶 それは夏の雲みたいに、かき氷みたいに、少し目を離したら崩れて溶けていってしまうから、そこにあったことをなんとか証明したくてここに残している。 なぜ音楽という生まれた瞬間に消えていってしまうような不安定もので自分を立たせておこうなんて思うのか、さっぱりわからないけれど、その瞬間たしかに自分はそこに居て、しかもなんだか必要な存在にすら思えてくる。不思議。 だから音が消えてしまったあと、どうしようもなく孤独を感じる。世界から切り取られてしまったみたいに、あるいは宇宙
もうすっかり涼しくなってしまって、じりじりと街を焼いていた太陽も今はぼんわりと夏の終わりの予告するだけになってしまった。 特に渇望するわけでもなく、季節外れになる前に救出した冷凍庫のアイスをかじっている。 こうしたちっぽけな日々のタスクをこなすだけで精一杯なのに、何かを残そうだなんて、または生み出そうなんて傲慢なのかもしれない。 そうだった、思い出した、わたしはごく普通の平凡な人間だったのだ。 緩んだ口元からアイスで白く濁った唾液が垂れて、慌てて拭き取る。なんだかとても
思い立って近くの山に登ってみた。少し出発も遅れたため、人がまったくおらず、進むほどに言いようのない不安と恐怖に襲われ、さらには運動不足による息切れ、途中でこれはもう無理だと山頂に到着する前に引き返した。 表山道を上っている時は、つらい、苦しい、こわい、などネガティブな感情ばかりだったが、裏山道を下っていると、次第に落ち着きを取り戻した。すると、後ろから人の気配が。ほっとするも、震える足で身体を支えるのに精一杯な私は、お先にどうぞ、と道を譲ることしかできず。 そんな私に
昨日から始まった大掃除。とは名ばかりで、単に溜まった家事を片付けて、不用品を整理していただけなのだけど。 本棚を整理していると、読まずにただ整列させていた本が目に止まったり、使い所のない文具が顔を出したり、思い出の品を見て感傷的になったりと、なかなか労力がいるものだ。 それでも、昨日は何故か「今日のうちに身の回りを整えておかねば」と、面倒な口座入金や、資源ごみの分別と廃棄、いよいよ寒くなったので衣替えも兼ねた大量の洗濯物も済ませた。久々に作った、だし巻き卵は失敗した。
やっと休みになったので、 課題をクリアしたご褒美を兼ねて 映画「正欲」を観た。 (ご褒美枠としては重い映画) いよいよ多様性とはなんだかわならなくなってきた。犯罪と狂気との隣り合わせ、紙切れ一枚くらいの隙間で「普通」を追い求める人々。 私も含めてだけど、きっと普通じゃない何かを求めて、ここにいる。いつもとは別の名前や顔を持ち合いながら。 持ち寄ることも、見せ合うことも自由だけど、それを投げつけてはいけない。 力の強い者は、弱い者を脅かすためにそれを使っちゃいけない。有
小説や映画は、気に入ったものを何度もループしてしまう。しかも、この季節はこれ、この気分の時はこれ、ここへ行く時はこれ、と、自分の中で限定公開をしてしまうから、新しいものがなかなか入ってこない。 ある時、「現状維持は衰退である」という、かつて師から受けた言葉を思い出した。映画好きの友人の影響もあり、月に一度映画館へ行く、という目標を定め、とりあえず気になったものを観ることに。たしか3月から始めたので、半年継続できたのである。 もうかれこれ20年前の作品である「サマータイムマ
もちろん、 簡単に答えなど教えてくれなかった。 私は原作を読まずに鑑賞したのだけれど、 本を読ませるため、の映画なのか。 たくさんの寓意が散りばらられているように感じた。 あれはなんだったのか、と考える。 明解なハッピーエンドではないところが、 作品の魅力のひとつなのかもしれない。
日曜日に、美術館へ しあわせなひととき 帰りに餃子をお腹いっぱい食べました