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不自然な自然
水族館の絵を描いたというコドモの作品を見ると、その水槽の中に泳いでいたのは魚ではなく「切り身」だった――かつてのネットニュースでも紹介されたその”異常事態”は、「自然とのつながりを知らずに生きる現代のコドモ」への哀れみと嘲りと好奇心をソースに書かれたような記事でした。
切り身が泳ぐ絵を描くところを実際に目にしたという話を某図工の教員からきいたときは、わたしも”現代っ子”たちへの驚きが隠せず、なんだか悲しいようなかわいそうなような複雑な気持ちになりました。
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数年後、あの時自分が抱いた「悲しいようなかわいそうなような複雑な気持ち」はかなり上から目線のものだったと気づいた出来事が起こりました。
ある修行に参加したときのことです。行の途中で先達がいいました。
「ところで、あなたたちは、自分が飲んでいる水がどこの山からきているのか知っているのですか?」
そのときにわたしの頭の中を横切ったのは泳ぐ切り身でした。
水道の蛇口をひねると水は出てくるものだとしていたけれど、確かにこの水は空からいつか雨が山に降り注ぎ、時間をかけてジワジワ染み出してできたもの。
(わたしは、どの山経由で溜まった水を飲んでいるのだろう?)
30年ほど生きてきて考えたこともない問い、それに答えられない自分を知ったとき、かつてはコドモに向かっていた「悲しいようなかわいそうなような複雑な気持ち」のベクトルは、今度は自分自身に向けられました。自然とのつながりを知らずに生きていたのは自分でした。
そして思い出しました。昔はカニカマは本物のカニだと信じて、食べるときは両手でもって、一筋一筋剝きながら食べてたなぁ、と。
卵がひよこの元だと知ったときや、レバーが動物の肝臓だと知ったとき、かなり驚いたことも思い出しました。
大好きなふかふかの布団の中身が本物の鳥の羽だと聞いた日の夜、眠れなかったのも思い出しました。
牛乳はお母さん牛が自分の子どもにあげるためにできるもので、搾乳するためにはまず牛を妊娠させないといけないということを知ったときも、煉瓦で頭を叩かれたくらいの衝撃があったことも思い出しました。
昔どころか、わたしはつい最近自分で体験するまで、1杯のコーヒーがどのようにして出来上がるのかさえ知りませんでした。
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昨日の夜、いきもの博士のMさんとやんばるまで遊びに来てくれていた姉貴分と3人で山を回りながら、「自然の一部として生きる方法」について話をしました。
Mさんが、観察したばかりのナミエガエルの一生の話をしてくれました。その話では、最後、死んだナミエガエルはサワガニに食べられました。
わたしは、ナミエガエルがうらやましいな、と思いました。ナミエガエル、というか、自然界に自然に生きるいきものたちへの憧れです。自然の一部として生まれて、自然の一部に還ることができることが何よりうらやましい。
ヘビに襲われるかもしれない、とか、晴天が続いて皮膚がカピカピになってきてつらい、とか、ごはんを捕まえられなくてここ1週間空腹つづきだ、とか、ペアを上手く見つけられず子孫を残せるか不安だ、とか、あるのだと思います。だけど、何も持たず、何も残さない、死んだら食べられて、誰を悲しませることもなく完全にゼロになる。そんな生き様は、太郎よりもさらにさらにずっと憧れます。
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人間として、こんなにも便利な生活を享受して生きてきたわたしは、どんなに望んでも野生生物のような潔い人生は送れません。
でも自分が生きているあとの年数くらいせめて、自然とのつながりを感じながら、そしてできるなら、周りも巻き込みながら、できるだけ自然の一部になれる生活ができればいいなと思っています。
泳ぐ切り身を描くコドモがいたら、笑うのではなく、いっしょに海に潜っていけるオトナになっていこうと思います。