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【「真・中二バフ」シリーズ】格差社会ではカーストが理解されない!(ヘーゲル革命前夜)

【シリーズ説明】
逃避としての中二的な思考は確かにどこへも進まないから、その停滞と生涯にもたらすダメージから病気の様相を呈するかもしれない。だが、世界のありのままを深く体験しつつも、中二の魂を抱いて現実に確かな希望を見失わずにいられるのは、人生をはるか高みへと導く…かもしれないじゃない?

中二病とは症状も後遺症も全く違う。人生に一貫した活力を与える魂の活性化を得る祝福、これを「真・中二バフ」と呼ぶ…なんて言うと中二病の方になってしまうか?

ま、いつまでシリーズになるか知らないけど、ここまでもこういうスタンスでやってきたのは事実だからね。事実は小説より奇なりを地で行く人生を味わいたいなら、まあ、読んでいってね? (容赦のないこと書いているし、無理にとは言わない)


格差と身分とどっちがましかと言われたら身分だろう。社会を維持していくためには、放置しておけば出来上がる格差よりは、理念に基づいて構造化される身分の方が有用性が高いからだ。獣性原理の社会と神性原理の社会、永続性で言うなら間違いなく後者なのだ。獣には前にしか目がついていないが、神は全方向が認識できる。その認識を活用して世界設計という発想を持てることからして違う。

歴史的に有名なインドのカースト制度でも、身分は格差とは違ってちゃんと理念で分類されている。格差は単純な一つの軸を基準とした量的な強さの違いだけだから、軸に対する理解に基づいて、ひたすら自分さえよければいいというのを(軸によっては必要に応じてうまく覆い隠して)追求できれば量に従って上昇するが、カーストでは哲学者(バラモン)ー 戦士(クシャトリア)ー 市民(バイシャ)ー 大衆(シュードラ)という質的なレベルの断絶だ。より広い視野と柔軟性をもち、自分もそれに溺れないことでメタモルファーゼ(変態)することが上昇の条件になる。

いつの時代も大衆とはつまり奴隷だ。それは今後も変わるまい。奴隷が多い社会は活力を閉ざされて基本的に停滞する。市民と大衆の違いは自分を高める意志があるか、諦めているかの差だからだ。だから大衆が奮起すれば市民になる。市民からは覚悟すれば戦士になれる。戦士の経験を意味とともに蓄積するなら哲学者になれる。そしてすべてを経験した哲学者(バラモン)が理念を扱い、その理解に近い戦士(クシャトリア)が実践、さらにそれに基づいて市民(バイシャ)が経営活動を行い、大衆(シュードラ)が頭脳を含む肉体を使って労働し消費もする。

なお、シュードラだけが「働く」のではなく、「働かされ」るのに甘んじる。働いたら負けとか考えながら「働かない」のは「働かされ」る状況では「働かされ」る存在だから、シュードラである。バイシャもクシャトリアもバラモンも己の本分については自発的に「働く」し、それを喜びにできる。バラモンは何をしていても、己の本分だと感じるまでに認識を高度化している

主として経済の廻る場所はシュードラとバイシャに違いないが、いかなる機能を目指して経済(経世済民)を行うかはバラモンが構想している。盲目的にからだを養うのがシュードラで、それを経済として支えるのがバイシャ、国としてのまとまりで社会化するのがクシャトリア、さらにその活動のすべてに意味を与えていくのがバラモンという構図だ。だから、シュードラの生活をバイシャ、クシャトリア、バラモンがそれぞれの役割に基づいて支えていると言ってもいい。

ただ、経済を廻す担い手を「神の見えざる手」と信じる社会では、世界の構想者バラモンが不可視となり、共同体の守護の担い手なるクシャトリア、あるいは家族的なバイシャが社会の中心で目立つ。しかし、バラモンが世界をも超える規模で(国際的・地球的・宇宙的に)考えるのに対し、クシャトリアは愛国心レベルで考え、バイシャは自分の仲間レベルで考え、シュードラは自分以上のことを考えるのを放棄している。この構造があるから社会の維持のためには、社会に常に意味を満たし保持する機能を持つバラモンの活動がもたらす成果が見えないのは痛い。(シュードラ以外は社会の不安を感じ取る。)

どちらにしても格差というのはバラモン不在の(あるいはそう見える)共同体の成れの果てだ。行きつくところだ。そこには理念が(見え)ないからバラモン階層以外は人生に意味を見出さなくなる。それでもその中で個人的な理念を芽生えさせ、経営を行い、その淘汰圧に逆らって闘争することで、その理念を発展・実用化し国際視野を超えたところまで到達する者は必ず出現する。そういう者は一代でシュードラからバラモンになる。そしてバラモンとはそもそもが潜在的(不可視状態)でも成立する職業であるということも認識する。

強烈なディストピアのリアリティへの反抗の中でも、そこでこそ叩き上げのバラモン(経験範囲が著しく広範かつ深遠な哲学者)が誕生するのだから、バラモンとしてはディストピアという構造自体には絶望する必要がないことがわかっている

逆に、与えられた格差を当たり前のように受け入れることができて、身を養えていることに無自覚な満足を得て、同じく自覚できない不満をおしゃべりや余暇に興じることで紛らわし笑い飛ばせるなら、幸運なことにその者はたいていはシュードラだ。人生に意味を見出すことを早々に諦めているから、もはや考える必要すら感じることもなく、人生の意味も求めることもないから意味のない人生に不満を自覚しない。シュードラはシステムに従順だからいかなる社会でも、その担い手として(そこそこ)幸せになれる

いかなる社会であっても、その社会の存在意義への理解、あるいは存在意義の創出が自在にできるようになったバラモンはもはや腐ることなく生きていける。だから、むしろその直前、クシャトリアやバイシャの段階にある者が最も苦悩する

クシャトリアは、戦うべき相手は一体誰(何)か、どうすれば勝利なのか、という根源に至る問いを発し、やがて満たせるようになるまで闘争は続く。社会に対する不安に抗うあらゆる苦悩と葛藤が、自分にとって実のある闘争だと認識できるようになったのがクシャトリアなのである。

そしてバイシャもまた、経済の担い手としての苦悩を味わう。バイシャとしての経験の質と量が、クシャトリアになってからの経歴を左右することが多い。十分な経験の質を持たないままクシャトリアとして振舞おうとすることが、実際には認識範囲外の社会を混乱に陥れる原因となり、その帳尻合わせのために本人の明確なレベルダウンを余儀なくされることも多い。諦めるところまで落ちるとシュードラからの再スタートになってしまう。自分本来の力で階層にとどまっていたのでなければ、認識を忘却して、その後のいくつかの人生で復活するのが難しくなることだってある。

しかし、苦悩と葛藤をまとめ上げ、晴れてバラモンに達した暁には、シュードラからバラモンへ至る道を経験済みのモデルルートとして掲げ、バラモンとしての役割意識からシュードラたちの活動を(影ながら)支え、その中から将来のバラモンへ至る道に気付けそうなタイミングにいる者を選り分けて、それとなくヒントを与えて誘ってみる道に就くかもしれない。こういった営みは格差(階級)と身分(階層)が混同されてしまっている社会でも問題なく機能している。(叩き上げでないバラモンの中には階級がそもそも見えないタイプもいる。)

実は(その階層出身の)身分というのは精神の在り方で、格差(における階級)はその社会で最重視される軸に沿った正方向への振れだ。このことさえしっかりわかってさえいれば、表面上の不条理を起こしている原因も目に見えてわかってしまう。身分(階層)と格差(階級)が一致していない人間を探せば崩壊の起点が見えてきてしまう。なぜなら、身分(階層)は認識範囲の広さで、階級(階級)は単に発言力(聴かない力・拒否権)だと考えることもでき、能力と責任のない強引な発言により社会の破壊をもたらす場所を可視化すらできる。こういったことはクシャトリアとバイシャのレイヤー(階層)で起こり、巻き込まれるのもこのレイヤーの住人だ。

(わかってもいないのだから手を出してはいけないところに影響を及ぼすことで、その影響がその部分の社会的な構造を迷惑かつ無意味に崩壊させ、しかしやがてはその崩壊は地を伝わって手を出した者の足元も崩壊させて、因果応報が完結する。認識=引責範囲と権限が一致しないことがその層にとっての悲劇なのだ。)※動画案件

ちなみにこれこそ覚えておくべきことだが、階級闘争は可能であっても、階層闘争は基本的に起こらない。(階層を論じたヘーゲルにしてみれば、階級しか見えなかったマルクスは極めて的外れなことを言っていることになる)。階級は同じ層の問題なので、勝利条件として相手を無力化するというわかりやすい目標が設定できるが、階層間の場合はそもそも何を勝利とするのかという理念からして質が違うのだから、無意味すぎて争いにならない。

そもそも認識が広大で深淵であるほど、視力(五感)ではなく思考(概念)で物事を視る。視力で価値あるものと思考で価値のあるものはそもそも一致しない。欲しがるものが違うのだ。(極端な話、バラモンは生存を欲しがることもない)。そして認識レベルが下がったように見えるのは矯正視力(借り物の思考力)が落ちたというだけだ。自分で考えて歩み、跳んだ過程をわかっている限りはレベルダウンもないから(仮にあってもすぐにレベルアップできる)、本物は引きずり下ろすことすらもかなわない。

それゆえ、この構造を認識できているなら階級(格差に基づく)が低くても(身分による)階層さえちゃんとしているなら発言が封じられることはない。その場で無視されたように見えても、必ず影響が浸透していく。見たままの階級が下であっても、認識がその階層に染み渡っているなら、階級を無効化して、その階層以下に(ときに不可視のまま)浸透する。また、少なくとも己がカバーしようとする認識可能範囲(=引責可能範囲)に彼が確信を持てるなら、必要に応じて目の前の愚かさを回避し、賢明さだけに届かせる意志を維持することもできる。必要がなければ無理に発言することもないだろう。

届かなかった真実は自分の内部に残留するから、それをさらに加工すればわかりやすく真実を伝える道を切り開く道具を開発できるし、真実のお持ち帰りが面倒なら密室で真実を発言しなければいいだけなのだ。しれっと真実は大勢が集まるところで(あまりわかりやすくならないように)発言すればいい。愚かさはその発言の持つ重みに気がつかないからちゃんとスルーしてくれるし、賢さはしっかり密かに共鳴してしまって、そのエネルギーで潜在的なパスをネットワークとして通すことができる。そして賢さに基づく共鳴可能性は絶大な信用の源になる。

長い人生で格差(階級)をベースに生きるときには最初に洗脳された状態から動かない。しかしカーストの意義が理解できる認識レベル(層=相)なら、身分における質と質の断絶(相と相の隔絶)がレベルアップ(相転移)だということがわかる。ここでは短期間で自分の成長を強く実感するイベントを経験できるのだ。イベントを意味(たいていはアウフヘーベン)とともに乗り切ることでメタモルファーゼが起こってレベルアップする。

実際、このイベントの意味ある体験こそが人生の意味の一つでもある。そして、仮にも人生に次があるとするなら、この構造の理解だけを魂に刻んでおけば、次の人生でも(初期の認識レベルが)高い層でコンティニューができてしまう。逆にこの構造に魂の理解が至らないなら、何度人生をリセットしても、連なる人生の全ての最終地点で「死ぬまで生きてきたけどなんの意味もなかった」という虚しい後悔が待ってる。かもしれない。


以上は小説のネタにできるかなと考えた仮説(無理なく逆転劇の起こりうるための設定構造)だ。でも、この視点からするといわゆるスクールカーストって実はカーストなんかじゃないよね、ってなる。単なる動物的な階級でしかないよね、って…。

身分と格差(階級)は全く別物だと考えるだけで、世界は大きく進歩できるだろう。


格差は放っておけばできるけど、身分はちゃんと意味を持たせて構想しないと創れない(感じられない)のだ。身分社会ではなく格差社会が可視化されてしまうのは、カーストが構造として果たしている機能が根本的に理解されていない証拠なのだ。しかし、さらにこれを必然と考えるなら、実際にはそういう風に社会機能を構想したバラモンがいるわけで、そのバラモンはこの構造の世界で目的の機能に達するまでは、世界の様相を保つに違いない。ならば、考えるべきことは一つだ。破滅より先に目的を達成することだ。

目的はおそらく高純度のバラモンの大量生成だ。だから、個人個人が己への課題として、自然発生的なイベントのひとつひとつに深く意味を見出し、おいしい味のする葛藤と苦悩から質(レシピ)を摂取してレベルアップし、最上層(イデアの層)まで上り詰めるのを目指すのが世界の目的に沿っていて、いいかもしれない。それが簡単に叶う環境はなかなか得られない。


Illust genereated by Aipictors


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