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遠野遥『破局』(アルベール・カミュ『異邦人』とジェラ―ル・ジュネット『物語の詩学』からも)

 今日は7日に発売されたばかりの文芸誌『文藝』から遠野遥『破局』を紹介する(文芸誌はぱらぱら立ち読みして面白い(と思われる)小説が載ってたら買います)。この小説、読んですぐに気づくが、主人公(=語り部)がどこかおかしい。たとえばこんなところ。

文藝25ページ左下

 トートバックの横に座り、時事問題の参考書を読んで彼女を待った。内容にうまく集中できず、何ひとつ身につかなった。喉が渇いているとわかり、彼女が選ばなかった温かいお茶を飲んだ。戻ってきた彼女は、少し顔色がよくなったように見え、安心した。安心したということはつまり、私は彼女の具合がよくなればいいと願っていたのだ。

文藝28ページ右上

 灯はやがて、私が体を鍛えていることに気づき、少し興奮した様子で、いったい何をしているのかと聞いた。私は腕まくりをし、力こぶを作った。触っても構わないと言うと、灯はまず右手の人差し指でつついて具合を確かめ、それから両方の手でそっと包み込んだ。筋肉を好きな気持ちが、触り方から伝わった。灯の手にはやけに熱がないけれど、それは私の体温が高いせいかもしれない。割れた腹筋も見せてやろうかと思ったが、私と灯は初対面で、ここは公共の場だった。かわりに服の上から大胸筋を触らせてやると、灯は嬉しそうに笑い、それを見た私も嬉しかったか?

 最初のも変だが、二番目のは異様だ。嬉しかったか? って、自分のことを語っているのに尋ねている(誰に?)。普通一人称というと主人公の思っていることが多かれ少なかれ書かれ、それが共感を呼んだり、反感を呼んだりして、それが読者が小説を読む推進力となり、小説世界を形作っていくことがままあると思うが、この小説では共感するもしないも、主人公がよくわからない。さらにいえば、主人公自身が自分の思っていることをよく把握できていないと思われる箇所が多くある。どこか魂が抜けているゾンビのように自分とは無関係の力によって突き動かされているようだ。
 読んでいてこの小説の主人公に似た主人公の小説を思い出した。アルベール・カミュの『異邦人』だ。『異邦人』はムルソーという主人公が小説の前半で犯したアラビア人殺しを、小説後半に裁かれる、というすじの物語だが、このムルソーの行動には分からないことが多い。小説の最初、母の葬式の場面でのムルソーは涙を流さず、取り乱すこともない。煙草をすったりして冷静そのもののように見える。海水浴に行き、マリイという元同僚の女と出会って、喜劇映画を観に行き、そのまま自分の部屋に連れ込む、という行動は葬式翌日ということを考えると、違和感を感じずにはいられない。あるいは前半の最後、アラビア人を銃で殺害する場面も分からない。最初の一発は防衛のためといえるかもしれないが、仰向けに倒れたアラビア人に四発連続で銃弾を撃ち込む様は冷徹な殺し屋のようだ。
 こういう一連の行動がムルソーの内面の描写なしに、その行動だけ伝えられるので、読者はムルソーという理解不能な男に共感も反感もすることができず、ただ怪物のような得体のしれないものを観察するように読み進めるほかない。小説の後半、裁判の場面で検察から責められるのも理路整然と行動を説明できない、その不可解さだ。
新潮文庫94ページ

 検事はなかば私に背を向けた。そして、私の方を見ずに、裁判長の御許可があったら、自分は、私がアラビア人殺害の意図をもって、たった一人で泉の方へもどって行ったかどうかを知りたいと述べた。「違います」と私はいった。「それなら、なぜこの男は武器をたずさえていたのか。なぜ、ちょうどあの場所へもどったのでしょうか?」それは偶然だ、と私はいった。すると、検事は意地の悪い調子で、「さし当たりはこれだけにしておきましょう」といった。それからは、すべてが、少しごたごたした。少なくとも私にはそう見えた。何かひそひそと打ち合わせたあげく、裁判長は閉廷を宣し、午後は証人尋問に移る、と述べた。

 午後の証人尋問ではムルソーの母がいた養老院の院長と門衛、トマ・ペレという養老院でムルソーの母が親しかった男、ムルソーの友人のセレスト、恋人のマリイ、隣人のマソンと順に進み。最後に友人のレエモンの番がまわってくる。
102ページ

 続いてレエモンの番が来た。彼が最後の証人だった。レエモンはちょっと私に合図をし、いきなり、彼に罪はない、といった。しかし、裁判長は彼に求めているのは、判定ではなく、事実だけだ、と述べた。裁判長は、彼に質問を待って、それに答えるように、と促した。彼と被害者との関係が問いただされた。レエモンはそれを利用して、自分が被害者の妹をはり倒してから、被害者が恨みを抱いていたのは自分に対してだ、といった。裁判官は、しかし、被害者はこの男を憎む理由がなかったのか、と尋ねた。レエモンは、この男が浜辺にいたのは偶然の結果だ、といった。すると、検事は、ドラマの発端をなす例の手紙が私の手で書かれた、そのいきさつを尋ねた。レエモンは、それも偶然だ、と答えた。検事は、この事件においては、偶然が、既に良心の上にさまざまな害をなしているのだ、と反駁した。レエモンが情婦をはり倒したときに、この男が間にはいらなかったのも偶然か、この男が警察で証人に立ったのも偶然か、またこの証言の際のこの男の供述が極めて好意的になされたのも偶然か、と検事がきいた。

 94ページの引用同様、ここにも偶然という言葉がでてくる。検事は偶然を認めない。人の行動がすべて後から説明できるものと信じているようだ。だから、ムルソーの行動は検事にはとても理解できない。そのため、理性で動いていないといってムルソーを責めたてる。
107ページ

 検事は、あの男の魂をのぞき込んで見たが、陪審員諸君何も見つからなかった、といった。実際、あの男には魂というものは一かけらもない、人間らしいものは何一つない、人間の心を守る道徳原理は一つとしてあの男には受け入れられなかった、といった。更に「恐らく」と彼は付け加えた。「われわれは彼をとがめることもできないでしょう。彼が手にいれられないものを、彼にそれが欠けているからといって、われわれが不平を鳴らすことはできない。しかし、この法廷についていうなら、寛容という消極的な徳は、より容易ではないが、より上位にある正義という徳に替わるべきなのです。とりわけ、この男に見出されるような心の空洞が、社会をものみこみかねない一つの深淵となるようなときには」

 検事の言い分は、もちろん検事という役割柄上、ちょっと仰々しくなっているが、この小説の読者にも検事の意見はもっともだと思う人もいるかもしれない。その一つの理由は読者にもムルソーに関して検事と同じ程度の情報しか開示されていないからだ。ムルソーの内面(たとえば母の葬式の夜、彼が何を考えていたかとか、マリイと会いながら感じていたこととか)がもっと描かれたら、この小説は全く別ものだったろう(あるいは小説として成り立たなかっただろう)。
 この小説の書き方(語り)についてジェラール・ジュネットが『物語の詩学』(ナラトロジー(物語論)を論じた有名な(わりにアマゾンで調べたら中古で2万円もする)本『物語のディスクール』の続編)で取り上げている。
131ページ

『血の収穫』『響きと怒り』、あるいは『異邦人』の叙法は、むしろ内的焦点化なのであり、もっとも正確な全体的定式は、おそらく、「思考についてのほぼ全面的な黙説法を伴った内的焦点化」といったところになるだろう。

 まず用語の解説をする。叙法というのは物事をどう語るかということだ。物語る対象を多く語ることもできるし、より少なく語ることもできるし、その対象をいろんな作中人物の視点から語ることもできる、その方法全体をさす。次に内的焦点化だが、大雑把にいえば作中人物の内側から小説が語られるということだ(作中人物の視点からというとあまりにも視覚が優位にたつので、ジェラール・ジュネットは焦点という言葉におきかえた)。あと黙説法はある部分をわざと語らないで飛ばす語りのことをいう。ヘミングウェイがよく用いたのもこれで、作中人物の内面をあえて描かず読者に想像させるといった使われ方をする。
 ジェラール・ジュネットがいうには『異邦人』は「思考についてのほぼ全面的な黙説法を伴った内的焦点化」だという。思考についてのほぼ全面的な黙説法とは、ムルソーの内面の描写なしに、その行動だけ伝えられるということだ。内的焦点化は作中人物の内側から小説が語られるということだった。つまり、文全体が表現しているのは、ムルソーの内面の描写なしに、その行動だけが、ムルソーの内側から語られているという状況だ。この小説が一人称であることを考えるとこの状況は異様だ。
 上の引用ではムルソーが何かを考えていることを仮定している(無意識で行動している可能性を排除している)として、ジュラール・ジュネットは正確に言い換えている。
132ページ

「ムルソーは自分がおこなうことを語り、自分が知覚するものを記述する。けれども彼は、(それについて自分がどう考えているかを、ではなく)それについて自分が何かを考えているのかいないのかを、言おうとしない」。こうした語りの「状況」、というよりむしろここでは語りの姿勢こそ、さしあたってのところは、「中立的」な、もしくは外的焦点化を伴った等質物語世界的な語りに、もっとも似ている――あるいはもっとも似ていなくはない――ものなのである。

 また新たな用語が出てきた。まず外的焦点化だが、これは『物語のディスクール』の説明をかりてこよう。
『物語のディスクール』222ページ

ダシール・ハメットの小説で、彼の作品の主人公はたしかにわれわれの眼前で行動するのだけれども、主人公の思考や感情については、われわれは決して知ることができない。同じくこの種の技法を普及させたものに、ヘミングウェイのいくつかの中篇小説があって、たとえば『殺し屋ども』とかさらに恰好な例としては『白象に似たる山々』(『失われた楽園』)があるが、この最後の作品では、語り口の抑制が嵩じて謎かけに化しているのである。

 まあ一言でいえば、中心となる作中人物を外からの視点で描くのが外的焦点化ということだ。
 もう一つの用語、『等質物語世界的な語り』だが、これは小説の物語世界に語り部が登場する、そういう場合の語りのことだ。普通は一人称というが、一人称というと、例えばスタンダールの小説のように「実は(……)われわれはわれわれの主人公の物語を(……)開始したのである」と書く場合と、語り手が作中人物で「われわれ」と言って、自分を含む複数人をさす場合とで、どっちがどっちか紛らわしいので、これもジェラール・ジュネットが導入した。『等質物語世界的な語り』に対して『異質物語世界的な語り』というのもあって、こちらは小説の物語世界に語り部が登場しない、そういう場合の語りのことだ。
 ここで元に戻って「外的焦点化を伴った等質物語世界的な語り」とはつまり、一人称なのに自分の内面(思考や知覚)を隠した語りということになる。これはかなり無理のある状況だ。その無理さ加減をジェラール・ジュネットは「もっとも似ている――あるいはもっとも似ていなくはない――ものなのである。」と表現しているのだ。等質物語世界的語りで外的焦点化という小説の無理さ加減は129ページの表にも表れている。

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 この表はジェラール・ジュネットが語りの種類で小説を分類したものだ。右下が空白になっているのが分かるだろう。すぐさま新しい用語『焦点化ゼロ』を説明すると、「神の視点」ともいわれるもので、『戦争と平和』など、あらゆる登場人物の内面を把握している語り手による語りで、ジェラール・ジュネットは表の項目名で、それを「作者が支配する」と表現している。この表にしたがって、これまで紹介した小説をちょっとだけ分類する。まず『ねたあとに』は表真ん中の下、Eだ。『子どもたち』はA(作者が各子供の内面を熟知しており、物語に登場しない)、『イワン・デニーソヴィチの一日』はE。『死の床に横たわりて』もE(だが、これは語り部が複数いるから、この表の分類ではその違いはわからない)。といった感じでやっていくと、Eに分類される小説が多くなりそう。
 話を戻すと、ジェラール・ジュネットはこの空白の場所をしめるのにもっとも相応しい小説として『異邦人』を考えたということだ。
 さらに話を『破局』に戻す。
 この小説を分類すれば、やっぱり『異邦人』と同じになるのではないか。つまり基本的にはEだがかなり空白の位置に接近している(外的焦点化を伴った等質物語世界的な語りというやつだ)。ただこの小説の場合、『異邦人』のように思考について黙説法が使われているようには思われない。語り部は自分の思考を故意に隠ぺいなどしていない感じがする。むしろ饒舌と思えるくらいだ。だがその語りがなんか変なのだ。
 文藝62ページ左下。主人公は母校の高校のラグビー部でコーチをしているのだが、その練習でこってりと部員をしぼりあげた後、ファストフード店に行くと、パーテーションの向うから部員の声が聞こえる。

「そんなにやりたいなら大学の部活入ればいいのにな」
「大学じゃ通用しないんだろ。たぶん自分が一番強くないと嫌なんだよ、だからいまだにここに来てイキッてんの」
「もう四年でしょ? やばいよね。就活とかしてないのかな」
「みんながみんな上を目指さないといけないみたいな考え方、やめて欲しいよな。いや、別に上を目指してないって言ってるわけじゃないよ。でも他人に無理やり強制されるのは違うと思う。
 百歩譲って俺たちはいいよ。でも一年生にはまず楽しい部分を教えてあげたほうがいいと思う。あんなの全然楽しくないし、それでこのスポーツが嫌になって部活辞めたりしたら、一生嫌な気分引きずるよ。テレビで日本代表の試合とか見るたびに嫌な気分になってさ。ああ、あのとき自分はここから逃げたんだって、いちいち思い出してさ。
 俺はあいつらにそんな思いさせたくない。そんな人生はかわいそうだから」
 客はパーテーションの向こう側にいたから、顔までは確認できなかった。私は、チーズバーガーを食べるはずだった。ところが、急に魚のバーガーが私の心を捉えた。魚のバーガーだけでなく、よく見てみれば、すべてのハンバーガーが色鮮やかで、おいしそうだった。この中から、どれかを選べというのか。どれかを選ぶということは、どれかを選ばないことを意味し、今の私にはとても、そんなことはできそうにない。外国人の店員が私を見ていた。私は彼女に背を向けて外に出た。

 もう一カ所引用する。文藝57ページ下。主人公は灯という彼女と一緒に北海道旅行にきた。主人公はバス停で待つ彼女に温かい飲み物を買おうと自動販売機に向かう。だが冷たい飲み物しかない。

私は灯に飲み物を買ってやれなかったことを、ひどく残念に思った。すると、突然涙があふれ、止まらなくなった。
 なにやら、悲しくて仕方がなかった。しかし、彼女に飲み物を買ってやれなかったくらいで、成人した男が泣き出すのはおかしい。私は自動販売機の前でわけもわからず涙を流し続け、やがてひとつの仮説に辿りついた。それはもしかしたら私が、いつからなのかは見当もつかないけれど、ずっと前から悲しかったのではないかという仮説だ。だが、これも正しくないように思えた。私には灯がいた。灯がまだいなかったときは麻衣子がいたし、その前だって、アオイだとかミサキだとかユミコだとか、とにかく別の女がいて、みんな私によくしてくれた。その上、私は自分が稼いだわけではない金で私立のいい大学に通い、筋肉の鎧に覆われた健康な肉体を持っていた。悲しむ理由がなかった。悲しむ理由がないということはつまり、悲しくなどないということだ。
 自動販売機から離れ、けろっとして灯の待つバス停に戻った。悲しくないことがはっきりしたので、むしろ涙を流す前よりも晴れやかな気分だった。

 この二つの引用を読んでどうだろう? 主人公の内面は理解できるだろうか? 主人公はいろいろに自分の思っていることを言ってはくれているが、語られるのはどうも状況とそぐわないことばかりだ。別に嘘をつこうとしているわけではないだろう。ただ無意識で考えていることに突き動かされているため、主人公も自分が把握できてない感じだ。だからいくら説明されてもこちらには主人公の内面は推測するしかないが、どういう大学生活でどんな思いをいだいて母校のコーチをしているかなど重要な情報が秘匿されているので、なにもわからない。結局は『異邦人』のように黙説法が使われているとみることができる。
 もちろん誰にでも無意識はあるし、自分の行動のすべてを理路整然と説明できるものではないが、この主人公の場合には時に無意識に支配されているように見えるほどそれが激しい。サイズの合わないだぼだぼの服を着ているみたいに、自分の輪郭が揺らぎ続けている感じというか、意識の境界が自分の周りにぴたっと定まらず、ふわふわと周囲を漂っているから、街を歩いていても余計な情報ばかりを受信してしまう(絵本の折れたページを必死で直そうとする父とそれを見守る子供とか)。
 だが意外にもというか、主人公は公務員を志している。また、ものごとはこうでなければならないという観念は人一倍強いのだ(男女共用のトイレで便座を上げたままの男が許せないとか)。無意識の欲望に突き動かされる男が、一方では、であるべき自分の像にしばられているという変な状況。
 フロイトは人の精神は自我、超自我、エスでできていると考えたが、本能的な無意識の欲望をエス、であるべき自分の像を超自我に対応させると、この小説の主人公のなかではエスと超自我が常にぶつかりあっているのかもしれない。
 ということで『破局』おすすめです。絶賛発売中の文藝に載ってます!

ではまた!

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