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神亀酒造センムとの出会いと最期にわたしに残してくれた言葉

「この業界に入ったからには彼(彼女)に会いたい」「一度でいいからお会いしてみたい」と言われる人たちがどの業界にもいると思う。石原裕次郎や松田優作みたいなスーパーマンのような伝説の人もいれば、高倉健のように人柄がよく愛されている人、イチローみたいに圧倒的な努力によってなにかを成し続ける人、ジャニス・ジョプリンとかジミヘンみたいに魂を燃やすというか、頑固と言えるほど信念を貫いた人…憧れの人にだっていろんなタイプがいる。

日本酒業界にもそんな人たちがいて、わたしは突然そのうちのひとりにお会いすることになったのだった。「神亀」の小川原良征(よしまさ)さん。社長になったって愛称は「専務(センム)」で、いまだにみんながそう呼ぶ。

2016年晩夏のこと。年明けの発刊を目指す「世界が憧れる日本酒78」という本の関東圏酒蔵を担当執筆してくれないか?と依頼が来た。普段ネット記事ばかりのわたしは「やった!」とひざを打ってすぐにメールの返信をした。どうもいろんなライターさんたちが忙しくて都合がつかず、わたしまで回ってきたということらしかった。ラッキー!よかった、わたしは時間と行動力だけはたっぷりある。低予算案件を手掛けることも多いから、カメラを抱えてひとり飛び回るのだってもう慣れっこだ。


最終的には当初より多くの蔵取材を引き受け、「来福」「御慶事」「澤姫」「仙禽」「惣誉」「岩の井」「旦」そして「神亀」の8蔵を担当することになった。そうと決まればまずは、取材のアポ取りからスタート。「忙しい酒造りのシーズンに申し訳ございませんが」と電話で取材依頼をして、FAXで内容を確認して。そうだな、予算も限られているからなるべくなら近くの蔵は1日で一気に回ってしまいたい。日時を調整してから再度電話をして…と繰り返しているなかで、一件だけ渋い回答が返ってきた。

「担当する社長が、寝込んでいてちょっと…」

「え!それは大変ですね。大丈夫ですか?そちらのご都合に合わせますのでなんとか!」

「確認してはみますが…」というやり取りだった。

ほどなくしてわたしの携帯電話が鳴る。

「9月××日なら良いと言っています。短時間にはなりますが」

「ありがとうございます!結構です。ありがとうございます!!」

わたしはクライアントからの依頼を無事遂行できそうなことにまずはホッと安堵して、それから神亀という蔵に行ける!伝説のセンムに会える!ということで頭がいっぱいだった。きっと夏風邪かなにかなのだろうと思っていた。申し訳ないことに、本当になにも知らなかったのだ。


蓮田駅からタクシーでわずか5分。着いてみてびっくりした。いわゆる酒蔵の顔となる部分がない。「神亀酒造」という木札は、貯蔵される酒のP箱(プラスチック製通函)で埋まって、完全に隠されている。入り口も大きなシャッターになっていて、今風に言えば、全然フォトジェニックじゃない。神亀酒造への勝手な思い込みがガラガラと崩れるのを感じながら、おっかなびっくり事務所に案内される。


神亀酒造のことを知らない人もいるかもしれないので、念のため説明しておこう。「神亀酒造」は埼玉県蓮田市で「神亀」「ひこ孫」を醸す、1848年(嘉永元年)創業の酒蔵だ。
戦中戦後の米不足の影響で、三増酒(三倍増醸酒=米と米麹でつくったものに、醸造アルコールをドカッと入れ、薄まった味を補うため糖類と酸味料とアミノ酸などを添加すると、最初の約3倍に増量されるのでこう呼ばれる)の製造が許可された。それから米余りの時代になっても不思議と三増酒は長く続いてなくなることはなかった。続いて困る酒蔵なんてない。

そんななか日本酒の将来を危惧して、「このままではいかん」と昭和62年に日本ではじめて全量純米酒を製造しはじめたのがセンムであり、神亀だ。日本酒が世界中のテーブルに並ぶべきだと信じて、世界に通用し、船便で流通してなお(さらに)美味しいのは「純米酒」であると疑わず復興にまい進した。彼らがいなければ今の日本酒シーンは存在しなかった、と言い切れる重要人物のひとりなのだ。

場面を神亀の事務所に戻そう。

やがて、写真で見たまんまの優しい丸顔でニコニコした小さなオジサンがやってきた。センムだった。体調不良のところ申し訳ない、時間を割いてくださってありがたいですと伝えると、「いやいや。すい臓を悪くしてしまって病院を行き来していてね。病院にも家族にも寝てろと言われるんだけど、今日はわりあい楽で」「え?すい臓ですか?それは…」「癌になってしまってねぇ」と小さく笑う。ショックで、ライターとしても人間としても未熟だったわたしはなんて言葉を返したのかも覚えていない。

その後、取材は始まり、純米酒のはなし、田んぼの話、当初たくさんの反発を受けた話、趣味である写真の話、埼玉県出身でお酒が大好きな高橋由美子さんとの親交の話、「夏子の酒」を描いた尾瀬先生の話、上原浩先生の話、蔵の方針。熱心な先生の課外授業のように実にたくさんの話を聞かせてくれた。まるで永遠に続きそうな心地よい空間で、わたしはいち生徒となっていた。

センムの体調は気になったのだが、彼は趣味の一眼レフカメラを手に立ち上がりわたしを撮り、酒造技能士の資格証の額縁を持って説明し、動き回る姿はとても耐病中とは思えないほどエネルギッシュだった。だからこちらもなんでも吸収してやろう、と必死に食らいついた。誰しもが時間の経過を感じず、「センム、そろそろ…」と社員さん(今思えば娘さんだったかも)が止めに入ってくれたときにはすでに、予定を大きく上回り2時間を過ぎていた。それでもセンムは話すことをやめなかった。わたしたちは一気にセンムのファンになった。並べるのもおこがましいが、日本酒への愛が共鳴した、そんな気がした。

本の執筆に関しては決まったページ数、文字数があり、必要とされているのは蔵の解説だ。センムの「先代から受け継いだ職人技や知識を後世に残すことが、自分が命をいただいた恩返しです。」という言葉はどうしても、という想いで記事に入れさせていただいたが、読む人はまさか目の前に命の終わりが見えている人の言葉だとは思うまい。涙をふきながら書かれた記事だとは思うまい。センムは本の発刊を見届けてから2か月後、帰らぬ人となった。


わたしは純米酒ばかりが日本酒だとは思っていない。伊丹の柱焼酎の文化は歴史的に見て必要だったし、自社で醸造アルコールを製造するところが出てくるなど技術と企業努力が進歩して判断要素も変わっている。良いものがあって、それ以外はもはや酒ではない、ということも言いたくない。それでも「純米酒こそ本来の酒だ」という動きは理解できるし、必要なものだったと確信している。いつだって誰かが風を正面から受けて先頭を走らなければならない。生涯をかけて、業界にひとつの形を残したセンム。「本物の酒とは」なんていう議論は終わることはない。その終わらない議論の一端を引き継いで担っていこう、一瞬でもあの人に触れることができたわたしだ。そう思わせてくれる、素晴らしい人との出会いだった。出会いは連鎖していき、みんなの心にセンムは生き続ける。

このコラムは、2018/06/05「osakelist」に寄稿した記事を修正して転載したものです。

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