今を生ききるということ 金森穣×田中辰幸『闘う舞踊団』をめぐる対話⑤
空っぽな自分が恥ずかしくて、読書家に
田中 『闘う舞踊団』を読んでいると、言葉遣いも洗練されていて、いかにも読書家が書いたという感じがするのですが、幼少期からかなり本を読まれていたんでしょうか。
金森 まったく読んでいない。日本を離れてからじゃないかな、読み始めたのは。
田中 図書館とかに絶対行かないタイプですよね。
金森 うん、行かない。
田中 僕もそうでした。何がきっかけで読むようになったのですか?
金森 最も大きかったのは、同級生たちの会話に衝撃を受けたことだね。
日本で踊っていたとき、バレエ団の先輩との会話で話題に上るのはフェラーリやF1の話だった。主役がはれるようになってギャラがたくさん入ったら、いい格好をして高い車に乗るというのが普通で、本や映画の話題が出てきたことは一度もなかった。
それがヨーロッパにきたら、同級生や年下の子たちが、社会のこと、哲学のことを実によく知っている。芸術はもちろん、様々なテーマについて自分はどう思うかしっかり意見を持っているし、若いなりに色々と深く考えていて議論もできる。かれらと話していると、「ああ、自分は空っぽだ」と猛烈に恥ずかしくなる。運動としての舞踊は続けていたものの、芸術として向き合うだけの教養のない自分に愕然として、本を読むようになったんだよね。
田中 なるほど。当時はどんなものを読んでいたんですか?
金森 格好つけてニーチェの『ツァラトゥストラはこう言った』とか、全然わからないのになんじゃこりゃと思いながら読んでいたね。負けず嫌いなので、読み始めたらわからなくても絶対に最後まで読む。
師匠のモーリス・ベジャールは哲学者の父親を持つ振付家だったので、作品は哲学的で、ルードラは演劇や歌唱、武道、剣道など身体表現にまつわるあらゆる文化的背景を学ぶ学校だった。それは大きなカルチャーショックだったよ。F1がどうのとかギャラがいくらだのと言っていた世界から、いきなり思想レベルの問題意識を持った芸術家のもとに行ったわけだから。
演劇の授業で取り上げられた三島由紀夫とか、一時帰国の際に空港の書店で見かけた村上春樹とか。自分のアンテナに引っかかるものを雑食的に読んでいたな。それは今も変わらない。「あ、このことが知りたいな」と思えば、なんでも読む。
読む体験を身体的体験にするということ
田中 わからないけれど読み通す力って、すごく大事だと思うんです。5秒でわからなければすぐに違うチャンネルに移るような時代に、最初から難解な本をわからなくても読み通すという非効率的なことをすること自体が。
金森 そうだよね。「ツァラトゥストラ」の概要は、ネットで調べれば3分でわかるから。でもそれでは「知った」に過ぎない。知識の獲得なら、近い将来AIがやってくれるようになるから、自分で知る必要がなくなるかもしれない。ChatGPTに「ニーチェとは誰ですか」と聞けば、全部説明してくれる時代がやってくる。そうして知識に頼れなくなったときどうするのか、のほうが問題でしょう。
田中 どうしたらいいんですか?
金森 だから身体と向き合うんだよ(笑)。この身体であるということが人間の本質なんだから。
田中 じゃあ本を捨てて……。
金森 捨てなくていいよ。読むという体験を、身体的な体験としてすればいい。本は知識を得るために読むと思っているから、重要なところだけ知ればいい、となっちゃうわけでしょう?
でも本を読むというのは、そもそもが身体的な体験だから。時間を費やして、行ったり戻ったりするという意味では、空間的な体験でもある。要約された内容が知識として頭に入るのと、いろんな文脈とつなげながら理解するのとは、脳内プロセスがまったく違うと思う。
田中 ニーチェを読むことに相当するのが、Noismのワークショップであると。
金森 それにはだいぶ飛躍があるけどね(笑)。
「ヤバい」を感じて「イケる」感覚に達する
田中 穣さんを見ていると、最初から自分の内なる声を信じられていたように思うのですが、どうすれば他者の評価から独立できるのでしょうか。
金森 これは、感覚的なものなんだよね。ある集団の中にポンと身を置いて、「ヤバイな」と思うのはまだ自分が到達できてないときで、そこから自分なりに色々と工夫して研鑽を積んでいくと、ある時点で、「あ、俺イケているな」という感覚がくる。それは情報として何かを知ったとか地位を獲得したということじゃない。もっと身体感覚的に「行ける」という感じ。オーディションで優れた舞踊家たちと並んで稽古する中で、「俺、行けるかも」と思えたときに自信がついたと感じるように。
田中 じゃあもう今はどんな場所にいても不安はない?
金森 もちろん今もあるよ。『闘う舞踊団』にも書いたけど、霞ヶ関の会議に呼ばれるときなんて、怖くて大変だよ。学もないのに、すごい大学を出た専門家たちの中に放り込まれるんだから。
ただ、大事なのは、どこに出ても自信満々でいることではなく、「俺、ヤバいな」と感じることのほうだと思う。そう感じれば新潟に帰ってもっと勉強しようと思える。いかに危機感を感じられるかということだね。
田中 今の穣さんでもそういうことってあるんですか?
金森 あるよ! 鈴木忠志さんや三浦雅士さんに会えば、やっぱり「ヤバい」と思うし。この人には勝てないなと思える人がいるというのは、すごく大事だよね。そういう人と定期的に会って危機感を保つこと。
Noismが金森穣の道である必要はない
田中 でも穣さんって、やっぱり近付き難いというか……。
金森 そう、堅苦しそうと敬遠されることが多いんだよね。話している姿を見たら普通で良かった、と言われるんだけど。プロフィール写真がよくないのかな。
田中 指先まで隙がなくてきれい過ぎますよね。
金森 それは仕方ないよ、舞踊家なんだから!(笑)
田中 (笑)。でも人って、ちょっとだらしないところを見て親近感を抱いたりしますからね。路地に迷い込んでいくような隙が大事だと思っています。穣さんはあまりに正統派で大通りしかないイメージだから。
金森 屋上でハーモニカを吹こうが、高校を辞めようが、スイスに行こうが、全部自分がやりたくてやっているのであって、言われてやったとか作っているわけじゃないんだけどな。
それに、Noismは俺の道である必要はない。俺にできることはやるし、時が来たらまた次の人がやればいい。そういうものだよ。今、Noismには山田勇気(地域活動部門芸術監督)の道と井関佐和子(国際活動部門芸術監督)の道という2つの異なる道ができているしね。
それまで1人でやっていたことを多角的にできるようになったから、今後、金森穣としてできるのは、こうやって他分野の人たちと話をして理解を深めたり、自分自身が勉強していくことだと思っている。
田中 新潟県民としては、もっと東京の人に見てもらうべきじゃないかとか、一方で新潟市民の鑑賞者も増やさないと市が運営している意味がなくなってしまうとか、色々考えちゃって、何か革命的な対策があればなと思うのですが。
金森 まあそれは、また3年後ぐらいに話そうよ。昨年9月に新体制が始まったばかりだから。1つ言えるのは、俺1人にできるのはここまでだったということ。今後、新しい体制のもとでどうなっていくかに期待するしかないよ、今は。
(了)
写真(1〜3、5枚目):高橋トオル 協力:MOYORe: