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綿帽子 第六十五話

権利書を渡して全てが終わる。

果たしてスムーズに入金されるのだろうか?
そんなことばかり考えているうちに夜が明けた。

お袋と二人ロビーに降りて、簡単に朝食を済ませる。
お袋は荷物を全て運び出したことで完全に安心しきっている。
俺はこれが何かの前触れのような気がしてならない。
肝心な時に何かやらかすのではないか?そんな気がするのだ。

約束の時間まで一言も喋らずに部屋に居た。
お袋はさっさと準備を済ませてテーブル椅子に腰掛けている。
無言の時間がやり切れなさを増幅させて行く。

「そろそろ出掛けようか」

「そうだな、お前タクシー呼んでくれ」

携帯に普段使っているタクシー会社の電話番号は登録されているが、ここから呼ぶには余りにも遠い。
フロントに電話して最寄りのタクシー会社から呼んでもらうことにした。

少々待たされてから電話のベルが鳴る。
急かすようにお袋を呼んで階下に降りた。
カウンターでチェックアウトを済ますと、慌ててタクシーに乗り込んだ。
目的地を伝えると、運転手さんは近くまで行くのでそこから先は教えてくれと言う。

タクシーに揺られながら意識が朦朧として来る。

そりゃそうか、相変わらず全身は隅々まで隈なく痛み、おまけに万年睡眠不足なのだ。

睡眠時無呼吸症候群のせいなのか不安障害のせいなのか、全く区別がつかないが、心臓が締め付けられそうになって夜な夜な目が覚める。

多分両方。

きっとそうだ。

だけど今の俺には解決する術もない。
ひたすら我慢して目的地の不動産屋へと向かう。

街の中央まで来たので住所をマップに打ち込んで起動させる。
マップの指示通りに運転手さんを誘導する。
手間取るかと思っていたが、案外簡単に目的地まで着いてしまった。

料金を支払ってタクシーを降りる。
緊張してきたが、ここまで来たらもう腹を括るしかない。
不動産屋の中に入ると、もう買い手の方はソファーに腰掛けて待っていた。

お袋と二人席に案内される。

元請けの不動産屋も進行役として既に到着している。

「準備ができましたら、始めさせていただきますので少々お待ちください」

「はい、分かりました」

落ち着かなかったが、冷静になって考える。
振り込み用に新しい口座をお袋に作らせた。
まだ一度しか使ったことのない口座なので、不動産屋の前のATMで入金後にスムーズに確認できるか確かめてみたい。

お袋に暗証番号を聞こうと振り向くと、何やら電話を掛けている。

「え?今ここでこんな時にどこに電話を掛けているんだ?」

「そう、今から契約終わらせて、お金を振り込んでもらって終わりなの。有難うね、貴女とも色々あったけどお世話になったね。お元気でね」

どんどん頭の中で不安という文字が大きくなって行く。

お袋の事だ、もう安心しきっているに違いない。

お袋はとかく何事も中途半端で最後までやり切ることができず、最後の詰めが甘い人なのだ。
しかもこんな大事な場面でこれをするということは、お袋は絶対何かをやらかすに違いない。
そんな気がしてならなかった。

とはいえ電話中だ、小声で早目に電話を切る様に促した。

頷いたお袋が電話を切る。

「どこに電話を掛けていたんだ?」

「〇〇さん、昨日お世話になったやろ。一応お礼を言っておこうと思って」

「いや、それは分かるけど、今ここでこんな時にすることではないだろう」

「せやけどな」

「分かった、分かった。とにかく事前に口座を確認したいから暗証番号を教えてくれ」

「何の?」

「新しく作った口座の」

「〇〇〇〇」

「え?本当にそうだった?」

「間違いない。お父さんの獣医師番号と結婚記念日の番号やもん。私が間違える筈がない」

「何か違うような気がするけど本当にそうだったか」

「間違いない。私が忘れる筈がないやないか」

「そうか?分かった。じゃあとりあえず見て来るわ。〇〇〇〇やな」

「ああ、間違いないて」

「行って来る」

お袋からキャッシュカードを受け取って表へ出た。

若干緊張しながらカードをATMの差し込み口へと入れる。
暗証番号を打ち込んで行く。

するとエラーメッセージらしきものが出てカードが戻ってきた。

「あれ?」

そんなはずはない、お袋に聞いたままの番号を打ち込んだはずだ。
もう一度カードを入れて暗証番号を打ち込んでみる。
ATMは全く同じ反応を示す。

「あれ?」

俺は考えた。
これは暗証番号が間違っていて、おそらくあと一回間違えるとロックが掛かる。
本当にこの番号で合っているのかもう一度確かめた方がいい。

一旦事務所の中へと戻る。

「お袋、さっきの番号打ちこんだけどエラーが出る。番号間違えたやろ?恐らくあと一回間違えると使えなくなるかもしれない」

「え?何言ってんのや、私が間違える筈がない。お前が間違うたんやろ」

「いや、お袋。こんな時まで俺を疑ってどうする?言われた番号をそのまま二回入れたけどエラーになる。これ以上続けると困ったことになるぞ、もう一度冷静になって思い出してみろ」

「そんなことない、絶対あの番号や。お前に任せたのが間違いやったわ、私がやってみるからお前は黙って見とき」

「お袋、そんなこと言ってる場合じゃない。冷静にならんとどうしようもなくなるから」

「うるさい。貸せ、キャッシュカード。私がやってみる」

「そうか、それならどうなっても知らんで。こんな時に電話なんかしてるから間違えたんちゃうか」

「うるさいわ、お前は黙っとけ。ほんまに何も出来ん奴や」

そう言うと、お袋は立ち上がって表へと出ていった。
俺も後を追う。
ATMの前まで来て戸惑っているお袋からキャッシュカードを取り上げて、差し込み口に入れる。

「これで番号入れてみ?」

「ここやな、ここ押したらええんやな」

「そうや」

お袋は番号を思い出すように口にしながら打ち込んで行った。
案の定エラーが出た。
しかも今度は何度差し込んでも反応しないで戻ってくる。
やはりロックが掛かったらしい。

「ほら見てみ、これどうするんや?今から契約交わすんやで、どうすんの」

「え?何でや」

「だから番号が間違ってたんやて」

「え?」

俄には理解できていないお袋を説き伏せて、俺はまたしても途方に暮れた。

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