雑記:上杉家の城下町(その一)
林泉寺の記事を書いた所で、以下米沢市内の上杉家ゆかりの史跡・寺院について紹介したい。
まずは、上杉家三十万石(後に十五万石)の居城の米沢城。
現在は上杉謙信をまつる上杉神社の敷地となっており、堀と土塁を残すのみであるが、かつては天守閣に相当する御三階櫓が土塁上に建っていた(米沢城には石垣は築かれなかった)。
神社内には上杉謙信の銅像や、近年建てられた上杉景勝・直江兼続の銅像などがあり、またかつて米沢城は伊達氏の居城であり伊達政宗はこの地で生まれたことから、伊達政宗生誕の地の碑もある。
上杉神社の社殿の向かって右奥には、上杉家に伝わる多くの宝物を展示・保存している稽照殿があり、上杉謙信所用と伝わる甲冑(下の写真)などの文物が常時拝観出来る(展示は入れ替えあり)。
また、上杉神社に隣接する米沢市上杉博物館でも上杉家ゆかりの文化財が展示・保存されている。
稽照殿以外にも、JR米沢駅近くの宮坂考古館は多くの上杉家ゆかりの甲冑を所蔵しており、上杉謙信・上杉憲政・上杉景勝・直江兼続・大国実頼・前田慶次郎・上杉綱憲所用と伝わる甲冑が常時展示してあり壮観である。
他にも水原親憲・武田信清・斎藤朝信・大国実頼(直江兼続の実弟)などの上杉家臣団の甲冑と伝わる武具が所蔵されており、時期によっては上記の甲冑に加えて、これらが第二展示室で展示されることもある。
※2024年8月20日追記
2016年末に私が同館を訪れた際には、大国実頼の甲冑が常設展示の中に含まれていたが、2024年夏に同館を訪れた際には、常設展示が入れ替わっていて、実頼に代わって水原親憲と鬼小島弥太郎の甲冑(鬼小島弥太郎は実在が疑わしい人物なので、あくまで伝承であるが)が展示されていた。同館で販売されている常設展の図録の中に収録されているのは、謙信・憲政・景勝・兼続・慶次郎・綱憲の六つのため、これらが固定でそれ以外の常設展の甲冑は適宜入れ替えがあるのだろう。
なお、江戸時代には本丸内に謙信の霊柩がまつられていたが、明治時代になって他の藩主と同様に上杉家の廟所に移された。
上杉家廟所の近くには、謙信の持仏と伝わる鎌倉時代の毘沙門天像(通称「泥足毘沙門天」)をまつる法音寺や、同じく謙信の持仏と言う刀八毘沙門天を本尊とする千勝院もある。
米沢市内には上杉家や上杉家家臣ゆかりの寺院が多く、このうち極楽寺元々越後揚北の豪族で上杉景勝に従って米沢藩に仕えた中条氏歴代の墓所(下の写真二枚目)がある(中条氏の墓所は家祖で謙信に仕えた中条藤資の墓から代々の当主の墓があるが、いづれも江戸時代後期頃に同時期に一度に造立されたものである)。
林泉寺の南方の照陽寺は、関東管領・上杉憲政の墓がある。
憲政は北条氏康に攻められて越後に逃れ、後に謙信を養子にして山内上杉家の名跡と関東管領の職を譲ったが、謙信死後に養子の景勝と上杉景虎(北条氏政の弟)が争った御館の乱に巻き込まれて景勝方に殺されている。
憲政の開基でその墓所もあった照陽寺も、他の寺院同様上杉家とともに米沢に移ったものであるが、憲政の墓所は後代に造立されたものである。
・2024年8月20日追記
上記の記事を書いた際には存在を知らなかったのであるが、照陽寺の南隣の常安寺には米沢藩士の斎藤氏の墓所があるので、2024年夏に改めて訪問した。
斎藤氏は中越の豪族で上杉謙信の重臣で、「越後の鍾馗」と異名を取った赤田城主・斎藤朝信が著名であるが、斎藤氏は当初上杉景勝の会津入部には従わずに越後に残ったが、寛永年間に朝信の孫の斎藤信成が上杉家に帰参し、以降米沢藩士として幕末まで続いた。
常安寺墓地の最も奥まった場所には近年設置された斎藤家の墓碑と、信成の墓があるが、信成の墓(下の写真二枚目)は「万年塔」と呼ばれるこの地方によく見られる石殿である。
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