スロバキア旅)ブラチスラバ②)マリア・テレジアとナショナリズムとツーリズム
先週に続いて、中欧のスロバキアの首都、プラチスラバを訪れています。ハプスブルク家下のハンガリーの重要な都として、さらにハンガリー・ドイツ・ユダヤ人の消滅という歴史もあります。揺れながらもナショナリズム・ツーリズムで統合を模索するスロバキアの姿に触れました。
ハンガリー王はブラチスラバの聖マルチン教会で戴冠
プラチスラバはハプスブルク家のオーストリア女王、マリア・テレジアが愛した街です。ハンガリーは16世紀前半、オーストリア大公だったハプスブルク家を国王として選びます。
ただオスマン帝国の力が強く、ハンガリーはオスマン直轄領、オスマンの息のかかったトランシルヴァニア公国、そしてハプスブルク家のハンガリー王国に三分割されます。
ここでハンガリー王の戴冠式は、占領されたブダ(現在のブダペスト)の近くのエステルゴムから、プラチスラバの聖マルチン教会で実施されることとなりました。(注・スロバキアはもともと上ハンガリーと呼ばれて、ハンガリーの一部)
1683年のオスマン帝国によるウィーン包囲は失敗し、1699年のカルロヴィッツ条約でハプスブルグ家はもとのハンガリー領を取り戻します。そしてそれてもなお、聖マルチン教会はハプスブルク家のハンガリー王の戴冠式がされる場所として機能し続けます。
マリア・テレジアが愛した街
ブラチスラバを愛したオーストリア王の中でも名高いのはマリア・テレジアでしょう。女王就任の直後にプロイセンのフリードリヒ2世がシェレジエンに侵攻し、オーストリア継承戦争がはじまります。劣勢となったマリア・テレジアが頼ったのがハンガリーです。
プラチスラバに赴いてこの聖マルチン教会で即位。馬上にあり力強い姿を見せたハンガリー議会に見せたマリアテレジアにハンガリーは感銘。資金と兵力を差し出し、後までオーストリア軍の主力として活躍することになります。
マリア・テレジアがハンガリーでの居城として滞在したのがこのプラチスラバ城です。こちらもデヴィン城と同様に、ドナウ川のほとりにあります。
民族の入れ替わり・スロバキアのアイデンティティー
ブラチスラバは民族の入れ替わりが激所です。第二次世界大戦でのチェコスロバキアとしての独立後、ハンガリー系住民はハンガリー政府との住民交換で多くがブラチスラバを去ります。同様に植民活動で根ざしていたドイツ人も退去を余儀なくされました。もともとは中世に西欧での迫害から逃れたユダヤ人も、ナチスの保護国化したスロバキアの協力でゲットーに送られて大量虐殺されます。
スロバキアのナショナリズムが生まれたのも、19世紀始めのナポレオン戦争がきっかけだといわれます。そんな彼らが自らの歴史をどう語り、国民統合につなげていくのでしょうか。そのヒントとなるのが下の銅像です。
モラヴィア王スヴァトプルク1世の銅像
ブラチスラバ城にあるのが、モラヴィア王スヴァトプルク1世の像です。モラヴィアはハンガリー(マジャール人)の侵入前のスラブ民族が作ったとされ、9世紀にはビザンツ皇帝に使節を送り、キリスト教の宣教師の派遣を要求したとされます。またグラゴール文字と呼ばれる文字も作りました。
こうした「建国の英雄」を探し出して、都市や城の中心に置く。観光客が目玉として訪れるツーリズムの中心ともなり、「国民」の物語をつむぐナショナリズムの中心としても機能する。歴史的なアイデンティティーの形成が難しく、多くの民族も住んだからこそ、現在の当局の努力や工夫が垣間見れました。