ドイツ旅)フランクフルト②国民議会設立で「ドイツ国民」を育んだ街
フランクフルトを訪れています。前回は、神聖ローマ帝国とともに歩み、皇帝の選挙と戴冠の地として紹介しました。国民議会を初めとしたドイツ国民を育んだ街としての顔について巡っていきます。
ナポレオンの衝撃
神聖ローマ帝国は、そもそもが分権的な「国家」でした。ウエストファリア条約で各国の主権が認められ、ナポレオンのドイツ占領と圧迫の下で帝国の消滅が宣言されました。
一方でナポレオンの衝撃はかえって、ドイツ人のナショナリズムを育てて統一国家を建設しようとの機運が生まれます。解放戦争には幅広い階層が参加し、ドイツの祖国愛とフランスに対する抵抗が呼びかけられたためです。
1817年には大学生を中心としたブルシェンシャフトの運動、1830年にフランスでブルボン家の支配に対する七月革命が勃発すると、ザクセンやハノーファーなどドイツ北・中部の諸領邦で憲法が選定されます。
フランクフルト国民議会の誕生
こうしたドイツ統一の運動がピークを迎えたのが、1848年にフランスのパリで勃発した二月革命に刺激を受けた、ドイツの三月革命です。ナポレオン戦争後の国際秩序の守り手だったオーストリア宰相のメッテルニヒは亡命を余儀なくされます。
ここでドイツ連邦の各邦国の選挙によってえらばれた議員が集まって作られたのがドイツ史上初の国民議会の「フランクフルト国民議会」です。彼らは冒頭の写真にある聖パウルス教会に集まりました。
教会の外壁にはフランクフルト国民議会の誕生を記念するレリーフが堂々と飾られています。
しかしこのレリーフにあるように、国民議会は1848年から49年で活動を終えます。審議を終えて帝国憲法を採択し、プロイセン国王にドイツ皇帝としての戴冠をお願いしますが、国王に拒絶されてしまいます。議会に認められて皇帝に就くという形でのドイツ帝国の誕生を、プロイセンは望まなかったためです。
その後プロイセンは宰相ビスマルクの指導のもと、デンマークやオーストリアと、フランスとの戦争の勝利を経て、ドイツ帝国を誕生させます。選挙によって選ばれた国民による「下からの」建国ではなく、プロイセンのリードによる「上からの」建国です。
ただ確かにフランクフルト国民議会はドイツの国民国家誕生の起爆剤となり、さらに世襲皇帝のもとでも連邦制度や選挙の導入といった国民議会が作った憲法の青写真は、確かにドイツ帝国に受け継がれることになります。
クリスマスマーケットにも息づく国民議会
私がフランクフルトを訪れた11月は、クリスマスマーケットで街は華やいでいました。「マルドワイン」という、スパイスや甘みを入れて温めたワインが名物です。それぞれの屋台が独自に作ったコップで提供され、それはおみやげとして持ち帰ることができます。
こうして手に入れたカップのひとつが、フランクフルト国民議会を記念した下記のものでした。ドイツの近現代史はナチス・ドイツと深くかかわり、ドイツ国民自身が誇って語ることのできる歴史はさほど多くないかもしれません。
その中で選挙で選ばれた議員が憲法を制定するフランクフルト国民議会は、ドイツ国民の誇らしい歴史として燦然と輝いているようです。
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