宮城県の震災遺構を見て回った話
先日、仕事の都合で宮城県へ行く機会があり、ずっと前から見に行きたかった震災遺構を見てきた。
私は地盤・地震に関わる仕事をしている。2011年東北地方太平洋沖地震が発生した3月には大学三年生で、地震学の研究室に仮配属されていた。4月からは、地震学の研究室で研究をしながら、卒業研究のテーマを少しずつ決めていこうという、そんな時期だった。
そんな時に、未曾有の大地震が発生した。指導教官だった教授はもとより、日本中の地震学者が経験したことのないどころか、想像もしていなかった事態に遭遇したのだ。
これから学ぼうと思っていた学問が、目前で自然に敗北した瞬間だった。完膚なきまでに敗北した地震学は、その年の地震学会では「地震学会の今を問う」というテーマで、翌年には「地震研究の歩みと今後」というテーマで特別シンポジウムを開催した。これまでの地震研究の在り方と今後の方針について議論するという、ある意味では情けなく、ある意味では謙虚な姿勢を前面に打ち出すという、そんな事態だった。
地震学は素晴らしいもの、社会の役立つもの、という希望にあふれた楽観的な世界観は間違っていた。へたに津波の被害想定を行ったせいで、想定以上の津波が襲った地域では犠牲者が増えた要因となったのではないか。へたに防潮堤を作ったおかげで、襲いくる津波が見えず、むしろ犠牲者が増えたのではないか。東北沖(≒日本海溝)でM9クラスの超巨大地震が起こらないなんていうのは間違いだったじゃないか。
しかし結果として、私は現在、学んだ地震学を活かすことができる業界と会社に就職を決め、今も働いている。やはり、こうした事態を目の当たりにして、自身と無関係な業界に進む気にはなれなかったのだ。少しでも、間接的にでも、地震による被害を減らすような生き方をしたかった。
そういう経緯があって、日本はこれまで多くの地震によって被害を受けてきたが、東日本大震災とそれを引き起こした東北地方太平洋沖地震は、私にとって特別な出来事だったのだ。そのため、一度は震災遺構というものを見てきたいと思っていた。
見に行ったのは二ヶ所である。一つ目は荒浜小学校。津波で1階と2階部分が浸水し、その後、震災遺構として保存され、一般公開されている。屋上に避難することで全員が無事に生き残ることができ、自衛隊のヘリコプターで避難したようだ。
展示されていたものは、許可されていないものを除いてほとんど撮影してきたが、それらを詳細に紹介することは避ける。いくつか、特に深く心に刻まれたものについて幾つか紹介したい。
これは、教室に残されていた黒板の月予定表である。小学生、中学生の頃、私たちも使っていた。進級直後はしっかり記入するのに、クラスによっては適当になっていったり、年度末までしっかり使われていたりするが、このクラスはしっかり使われていたようである。
この黒板は、ここに間違いなく日常の生活があったことを証明してくれている。殴り書きされた「津波」の文字が、何かを主張しているように感じた。
私が小学生の頃、今思い返しても、そんなに大人じゃなかった。どうやら前日は「卒業お楽しみ会」だったようだ。楽しかっただろう。来月から違う学校に通うことになるが、おそらく同級生のみんなは同じ中学校へ上がることだろう。違う小学校からの友達も混じって、不安と期待と緊張と、いろんな感情が混ざっていたことだろう。
その翌日に、全ての飲み込む津波が襲来した。被災地の子供達(当時)の話をYoutubeやニュースで聞くと、どれもとても素晴らしい話ばかりだ。嘘でもお世辞でもない。本当に。素晴らしいと思う。それはきっと、小さい頃に悲惨な出来事に遭遇したからであるのと同時に、おそらくご両親に愛され、地域に愛され、幸せに育ったからだろうと、勝手ながら想像している。
さて、二つ目は門脇小学校。津波による浸水被害とともに火災による延焼があった。荒浜小学校と状況が異なり、校舎に残った一部の避難者も、火災が発覚して校舎から高台に避難したそうだ。
こちらは津波による浸水被害のみでなく、火災による延焼被害が重なったことが、なんとも悲惨な結果をもたらしていた。津波による浸水はいずれ引くため、水がなくなるまで高いところで待っていればとりあえず助かると思われるが、同時に火災が起こっていては選択肢が限られる。この建物に残って良いのか、津波が襲ってきている状況で別のところに避難するか。現場でギリギリの判断をされた方々は、なんとも神経をすり減らしたことだろう。
何度も、命を左右する判断がなされたはずだ。異なる選択をしていたら、もしかして助かっていなかったかもしれない。そんな中を生き延びて、このように伝承してくださることは、人類にとって極めて重要であるはずだ。
歴史を繰り返さないよう、アカデミアや政府などは、こうした知見を研究や行政に活かしていただきたいと強く願う。