東京奇譚集

この短篇集では、1回消えた人がリターンしてくる話がいくつかある。
これまではそういうのは少なかったように思う。

にしても、春樹さんの小説は長篇と短篇ではずいぶん違うんだなぁ…、と気づきはじめる。

さて、今回のいわゆる「巻末収録の書き下ろし」は「品川猿」。
思えば緑色の獣にしても、こないだのかえるくんにしてもこの猿にしても、その外見とは異なりみんな素直で礼儀正しい。でも普段は地下で生きづらそうにけなげに暮らしているのが愛おしい。

「ハナレイ・ベイ」は、これはもう主人公(サチ)が映画版の吉田羊さんになってしまった。サチは若者のサーファーにけっこうズバズバ言うんだけど、その会話のテンポが軽快でおもしろい。
後半で小説と映画で少し異なるシーンが出てきて、まぁこれはもう吉田羊になってしまったからというのもあるけれど…感情を爆発させてしまう映画版の方が僕は好きかもしれない。

「どこであれそれが見つかりそうな場所で」は、高層マンションで夫が消失してしまうという話(ネタバレになるけど最終的にリターン)。
語り手は、ボランティアで消えた人(厳密にはある種の消え方をした人)を探すのが好きで、金銭は受け取らず、じっくり張り込み調査を続けるちょっと変わった人。
26~28階(だったと思う)の階段でいろいろな人と出くわす。昇りだけ走ってトレーニングする男、健康のためにと喫煙する老人(哲学的な話をたくさん語ってくる)、小さな女の子と好きなミスタードーナツの話をしたり、探しものの相談をしたり。
無為な時間の流れ方と、その間悲劇的に遠くまで流されている(?)夫のコントラストがなんだかおもしろい。あとからじわじわくる。

【好きな短篇ベスト3】
1. 偶然の旅人
2. ハナレイ・ベイ
3. どこであれそれが見つかりそうな場所で

いくつか好きなところを以下に引用します。

*****

「僕は偉そうなことを言える立場にはないけれど」と彼は言った。「しかし、どうしたらいいのかわからなくなってしまったとき、僕はいつもあるルールにしがみつくことにしているんです」
「ルール?」
「かたちのあるものと、かたちのないものと、どちらかを選ばなくちゃならないとしたら、かたちのないものを選べ。それが僕のルールです。壁に突きあたったときにはいつもそのルールに従ってきたし、長い目で見ればそれが良い結果を生んだと思う。そのときにはきつかったとしてもね」

(「偶然の旅人」より)

*****

「あのー、マリファナなんかはやってもいいんすか?」とずんぐりが聞いた。
「いいかどうかは知らないけど、マリファナじゃ人は死なないからね」とサチは言った。「煙草で人は確実に死んでいくけど、マリファナじゃなかなか死なない。ただちょっとパアになるだけ。まああんたたちなら、今とそれほど変わりないと思うけど」
「ひどいこと言いますねえ」とずんぐりが言った。
「おばさん、ひょっとしてダンカイでしょう?」と長身が言った。
「なに、ダンカイって?」
「団塊の世代」
「なんの世代でもない。私は私として生きているだけ。簡単にひとくくりにしないでほしいな」
「ほらね、そういうとこ、やっぱダンカイっすよ」とずんぐりが言った。「すぐにムキになるとこなんか、うちの母親とそっくりだもんな」
「言っとくけど、あんたのろくでもない母親といっしょにされたくないわね」とサチは言った。「とにかく、ハナレイではなるたけまともなところに泊まった方がいいよ。その方が身のためだから。殺人みたいなことも、ないわけじゃないんだし」
「平和なパラダイスっていうんでもないんだ」とずんぐりが言った。
「ああ、もうエルヴィスの時代とは違うからね」とサチは言った。
「よく知らないけど、エルヴィス・コステロってもうかなりのオヤジですよね」と長身が言った。
 サチはそれからしばらく、何も言わずに運転をした。

(「ハナレイ・ベイ」より)

*****

【著書紹介文】
肉親の失踪、理不尽な死別、名前の忘却……。大切なものを突然に奪われた人々が、都会の片隅で迷い込んだのは、偶然と驚きにみちた世界だった。孤独なピアノ調律師の心に兆した微かな光の行方を追う「偶然の旅人」。サーファーの息子を喪くした母の人生を描く「ハナレイ・ベイ」など、見慣れた世界の一瞬の盲点にかき消えたものたちの不可思議な運命を辿る5つの物語。

(書影と著書紹介文は https://www.shinchosha.co.jp より拝借いたしました)

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