常識を退かす練習
常識とは何かと常識的に考えると、改めて考えるまでもなく常識は常識なのだから皆知ってることだよと言われてしまうような気がします。
「常識を疑え」と声高に叫ぶ人も居りますが、そもそも疑い難いから常識であって、また疑ったところで殆どの常識は当事者が自身の文化圏で生きるために有用な情報ですから、やり過ぎると確固たる自我さえ危うくなって、およそ健全とはいえない精神状態になりかねません。
もうひとつの問題点は常識を疑った先にどうするかということですが、果たして疑った常識が真理でないとして、私たちに何が出来るでしょうか。
常識を打ち破る、なんて言葉もありますが、それは容易なことではありません。打ち破れないから常識なのであって、多くの人が疑いをもったら、最早その常識は常識とは言えません。
常識という言葉の定義は、概ね「社会的に当然と思われること」と考えます。詳細に説明しようとすれば何処までも長くなりそうですが、端的に述べるならこれくらいが丁度良いでしょう。
「社会的に」というのは、常識が国や地域や時代その他あらゆるコミュニティによって千差万別であることを示します。常に不変なるものがあったら、それは真理であって常識とは異なります。
「当然」は「当に然るべし」ですから、そうであるはずだという確信めいた期待です。
「思われる」のですから、意識せずとも感ぜられてしまう、或いはそのように思考してしまうという受動的なニュアンスが含まれます。
このように考えますと、常識という概念がふわふわと掴みどころのない不確かなものであるということがよく分かります。不確かなものであるにも関わらず、私たちは数多の常識を纏いながら生活しています。
常識を邪魔だと思ったとき、貴方は其処では非常識といわれるかもしれません。
言わせておけばいいのです。
私は医師で占い師ですから、まず存在が非常識です。医師としても呼吸器内科医で漢方医ですから、互いに非常識と見做される医学体系を同時に展開する変態です。生来の霊感を活かして式神を放ち人助けをすることもありますから、正気の沙汰ではありません。もしも私の目の前にこんな人物がいたら、ヤバい奴だと感じて距離を取るでしょう。
しかしながら、これは依頼者の抱える問題を解決するという一点を重視した結果です。
例えば西洋医学の常識の中では漢方治療は真髄を発揮できず、また漢方医学の常識に生きていたら西洋医学の功績を実践することは叶いません。
ところが常識を打ち破ってしまうと、その常識には戻れません。漢方医に転向した元西洋医が先端医療を批判したり、スピリチュアルにハマった元科学者が科学的思考を失ったりするのは、常識を打ち破った結果であろうと私は考えます。
では、私はどうしているか。
常識を打ち破るでもなく、戦うことさえせずに、そっと退けることを考えます。ちょっと脇道に退かしておいて、必要なときに思い出す。それも手間がかかりそうなときは、自分が避けて道を通るのも有効でしょう。
なぜ戦う必要があるのか。
正しさの主張なんて無意味なのに。
とはいえ数の暴力を浴びるのは御免ですから、私は社会の常識を身に纏いながら生きています。
貴方の生きづらさの原因のひとつが常識ならば、ちょいと退かしてみることを提案いたします。
ここは自由な電子の街。
決してご遠慮はありません。
せっかくの機会ですから、此処に「常識退かし」なコメントを残していってはいかがでしょう。
拙文に最後までお付き合い頂き誠にありがとうございました。願わくは、貴方を取り巻く常識の罠がするりと外れてくれますように。
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