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独創性と独善性の境界

独創的で独善的でないレポートを書いた学生を表彰します。」実習の初めに教授が云った。意味は自分で考えてください、と。

 2週間の実習で1人の患者さんを担当する。自分で問診をとって、診察して、どんな検査と治療が必要か考える。もちろん診療は学生の動きとは独立して動いていくが、自分だったらどうするか、そういうことを考えながら実習を続けていく。もし良いアイデアが認められれば、それは診療に採用される。この内科学教室では、当時そういう学生実習の形式をとっていた。

 各自レポートの主題は担当症例に関係するものを上級医から与えられるが、内容を作っていくのは自分だ。

 独創性と独善性とは、どういうことだろうか。

 それだけで主題になりそうな難問だ。しかしこれは医学レポート。症例報告の形式で文章を書いていく。「副甲状腺機能亢進症の診断と治療」それが私のレポートの主題だった。

 考察で手が止まる。何を書けばいいのか。

 考察は感想ではない。事実に基づいて過去の報告を参考に、真実を推測し明らかにしていくことだ。身勝手な思いつきは決して考察になりえない。身勝手。そうか、独善的とはそういうことかもしれない。すると次の問題は独創性だ。独創性とは何か。

 全ての学習は摸倣から始まる。ゼロから生み出すことは困難で、独創性の始まりも、過去の集大成にプラス1を積み重ねていくことに他ならない。もちろん、一部の「天才」と呼ばれる人たちは、そんな枠組みを容易く壊しながら突き進んでいくのだろうが、それは例外だ。凡人の積み重ねた煉瓦もやがて立派な家になり、内装に工夫を凝らせば独創的な住処になる可能性もある。

 先人の智慧に敬意を払いながら、自分の色をひとつ重ねてみる。独創性とは、その工程に生まれてくるものではなかろうか。

 そう考えた私は考察に没入した。まず調べる。図書館のパソコンを使って論文を探す。副甲状腺機能亢進症やMENに関する文献をひたすら調べる。日本語の論文はもちろん、英語論文も集める。そうやって集めた論文を参考にしながら、事実と思われる事柄を書いていく。そこにひょっとして、というスパイスを加える。ただし事実以外は決して断定しない。

 随分時間はかかったが、学生にしては比較的まとまったレポートが仕上がった。これでどうかと上級医に提出したところ、

 「これ、ちょっと違うなぁ。まぁいっか。教授も独創性とかなんとかいってたし。」と一言。専門家からみて「ちょっと違う」荒削りなレポートは、しかし教授の目に止まったらしい。

 以来、私は「独創性」の虜になった。

 ゼロから作らなくていい。
 自分の色をひとつだけ重ねていく。

 どんな文章も生きている。書き手が命を吹き込むからだ。無機質なフォントにも、その裏に味わい深い人生を垣間見る。

 その人の色の視える文章を、私は「スキ」だ。

 

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渡邊惺仁
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