「小さな幸せ」とは何か。【哲学入門】
昨日の呟きのコメント欄で、執筆のテーマをいただきました。
小さな幸せ。
小さな、という部分がポイントなのでしょう。
具体例を幾つか挙げてみます。
◇朝起きたら頭痛がなかった。
◇いつもよりコーヒーが美味しく淹れられた。
◇家族皆が朝食を残さず食べてくれた。
◇担当患者さんが全員快方に向かい、朝の病棟回診の会話の中でそれぞれの笑顔が溢れた。
◇今日もこうして記事を書いている。
今朝からこの瞬間までに少なくとも5回、私は幸せを感じています。大小の加減が悩ましいところですが、後述の理由から全て小さな幸せと考えます。
小さな幸せとは何か。
一言で表現するならば、
「現実と期待の差」です。
現実とは主観的認知に基づく現実であり、
期待とは心の自然な動きから発する期待です。
客観的事実はあまり関係ありませんし、
『期待しないでおこう』とか『期待してないから』という恣意性は逆効果です。そう頭で考えている時点で、心の動きを無視しているからです。自分の心を正直に見つめると、ドロドロと濁った煩悩が溢れていることに気がつくかもしれません。蓋をして見ないフリをしているうちは、その呪縛から逃れることはできません。蓋を外してジッと底を見つめたとき、はじめて自分の心の「期待」が姿を現します。
当然を当然と認識すると、現実と期待の差がゼロになりますから、小さな幸せを感じなくなります。それを「当然ではないのだ」と再認識することで、期待が現実を下回り、その差として小さな幸せが生まれます。
現実と期待という二つの変数によって規定されますから、小さな幸せは相対的な幸せと表現することもできそうです。
比べる幸せには終わりがありません。
もし「大きな幸せ」を定義するならば、それはきっと何とも比べることのない、絶対的な幸せなのだろうと私は想像します。
そこで私は考えます。
絶対的な幸せとは何か、と。
この命題に答えを出してしまったら、その瞬間に思考は停止し、哲学は宗教に成り下がります。
答えがひとつとは限らない。しかし宗教は、それぞれの正解を掲げます。数多の宗教がありますが、共通事項は「疑うことの許されない何かを信じる」ことのように思います。それは神様だったり経典だったり教義や歴史かもしれません。宗教そのものを否定する意図はありませんが、哲学を忘れた宗教は、ただ幹部の欲望を叶えるための組織に堕ちているように感ぜられるのです。誰か一人を「信じて」崇拝するなど危険極まりない蛮行。人は人です。
私は正解を掲げません。
絶対的な幸せとは何か。日常を生きながら考え続ける姿勢そのものが哲学の真髄と私は考えます。
考え続けることのできる幸せ。
私は今日も元気です。
拙文に最後までお付き合い頂き誠にありがとうございました。願わくは、貴方の思考と感性が研ぎ澄まされて、日常に幸せが満ち溢れますように。
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