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名付けると何が起きるか 〜シニフィアンとシニフィエから考える生きやすい人生の提案〜

●名前という特別な魔法 

 子どもの名前をどうしよう。これは非常に悩ましい問題でした。漢和辞典を一冊読みました。姓名診断も一通り調べました。妻との間に開催された命名会議は数え切れず、生まれて顔をみてからやっと決まりました。

 名付けるというのは特別な行為です。

 某なろう系スライム小説でも名付けることが特別な意味を持っていましたが、ここ現実世界においても言葉に特別な力が宿っていることは確かです。共通言語として認識されているような「もの」を示す言葉はもとより、形のない「もの」の命名、固有名詞、そしてヒトの命名。この特別な感覚は、どこから来るのでしょうか。



●シニフィアンとシニフィエ

 近代言語学の父とも呼ばれるスイスの哲学者フェルディナン・ド・ソシュール(1857〜1913)は、言語について深い考察と独特な解釈をもっていました。簡略化するとシニフィアンは「示すもの」で、シニフィエは「示されるもの」です。「リンゴ」という言葉自体がシニフィアンで、その言葉が示す「赤くて掌サイズで甘酸っぱい果物という概念そのもの」をシニフィエといいます。
 シニフィアンとシニフィエには文化的に結びつきがありますが、その関係は絶対的ではありません。つまり、「リンゴ」という言葉は「公園」を示す言葉でも良かったわけです。絶対的ではありませんが、文化的に、共通認識として、我々日本語ユーザーは「リンゴ」を「リンゴ」と認識します。
 「文化的に」といいましたが、これは文化が違えば概念が変わってくるということを意味します。例えば「マグロ」と「カツオ」、それぞれ違う魚ですね。味も食べ方も違います。しかしこれが英語文化圏では、両方「tuna」と表現されます。「tuna」というシニフィアンが、「日本語で表現されるマグロまたはカツオ」をシニフィエにとっているのです。

 ここでソシュールは興味深い論調を繰り出します。

「名付けられるから存在するようになる」

というのです。先の例でいえば、英語圏にはマグロもカツオも存在しません。tunaと示される魚の群があるだけです。名付けなければ存在しない。名付けられるから存在するようになる。観測することで状態が確定される量子力学分野を彷彿とさせる視点です(本質的には全然違いますが、全然違うということを証明することもまた困難です)。それは人間中心のある意味では身勝手な解釈かもしれませんが、私たちが人間である以上、実生活においては意外と役に立つ考え方です。

 名付けられなければ存在しない。
 名付けた瞬間に存在する。
 なんて不思議なことでしょう。


●感情に名前をつける

 感情への命名は代表的な実践例です。快、不快のふたつしかなかった新生時期の感情は、成長につれて複雑に分化していきます。大人になる頃には喜怒哀楽では表現し切れない様々な感情を経験することでしょう。命名しなければ、大枠で「快」「不快」あるいは喜怒哀楽ですませることもできるかもしれません。しかし、なんだろうこの気持ち、モヤモヤする、言葉にできない…そこです。そこでその感情を、言葉にする。当てはめてしっくりくるものがあればいいし、なければ作ればいい。とにかくその感情に命名すると、その感情が存在するようになり、自覚的に捉えることができるようになっていくのです。


●自分に名前をつける

 匿名性の高いインターネットはとても便利です。自分で自分を名付け、新しい自分になれるからです。名前をつける前に「その自分」は存在しません。しかし付けた瞬間に生まれます。何度でも、何度でも。名乗った瞬間からクリエイターです。創造された新しい「私」は、私の思うように成長していくことでしょう。

●関係性に名前をつけない

 名付けると存在するようになるといいました。逆手を取ると曖昧にしたいものには、敢えて名前をつけなければいいということです。白でも黒でもない、グレースケールの世界も慣れるとなかなか良いものです。
 自覚的に対処したいときには積極的に名付けて対象を顕在化させていき、逆に曖昧にしておきたいことには敢えて命名せずに保留しておくのが上手いやり方です。我慢することはありません。
 名付けてみたり、名付けないでみたり。
 それは自由です。楽しくなってきましたね。


 さて、貴方と私の関係性は?

 深く考えることはありません。

 貴方がいて、私がいる。それだけです。


 拙文に最後までお付き合いいただきありがとうございました。また何処かでお会いできる日を、心待ちにしております。

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渡邊惺仁
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