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老後のために4000万貯めるくらいなら私は潔く死を選ぶ。

 馬鹿げた推計を基に老後の必要資金が2000万円とか4000万円とか云う人たちがいます。

 国の年金制度や医療制度、生活保障やインフラ整備などが現行のまま破綻しないわけがないと思いますが、それはそれとして本当に個人が老後のために莫大な資産を備える必要があるのでしょうか。

 否。断じて否であります。

 そもそも国の推計は平均寿命まで生きることを前提にしています。日本における直近の統計では男性が81歳、女性が87歳くらいですが、そんな情報クソ喰らえです。

 ヒトの寿命が伸び続けるわけもなく、近い将来に日本人の寿命は縮み始めるように思います。というのも今の数字は健康寿命の向こう側に対する手厚い医療あってのものだからですし、臓器の耐用年数を考えれば分かります。尤も、遠い未来にサイボーグ技術が発展しヒトの機械化が進めば、もっと永く生きられるようになるかもしれませんが、まだまだ夢物語でしょう。

 自分が平均寿命まで生きる保証など何処にも無いのに、平均を示されると当然自分もそれくらいは…と考えてしまうのは人の性。それを咎めることはできませんが、おそらく誰も彼も、もっと早く死にます。それに医療介護の現場で80歳や90歳の現実に直面する私は、ただ長いだけの人生など御免です。

 80まで生きると思っていて70で寿命を迎えるのと、60までに死ぬと思っていて70まで生きるのでは、時間の価値が違います。この場合、期待と現実の差が価値を生み出す構図に気付きます。

 今、提示された数字が短いと感じた方は少々危険かもしれません。知らぬ間に今日という時間の価値を蔑ろにしている可能性があるからです。未来のために計画を立てて生きられるのは人間の美徳ですが、行き過ぎると醜悪です。頽廃的に或いは刹那的にいることを推奨する心算は毛頭ありませんが、あるかも分からない老後の為に今を犠牲にするのは凡そ健全ではなかろうと、私は思います。

 こういう話をしていると、極論に走る人がいます。もし明日死ぬなら…なんて、確率論的に稀有な現象を想定するのはやり過ぎでしょうし、永遠に生きるつもりで…なんて絵空事を信じられたら、それは哲学ではなくて宗教です。

 私たちは等身大の今を生きています。ほんの少し先のことを予測しながら、記憶に残る過去を懐かしみながら、ただ自然に生きていれば良いのです。

 ここまで読み進めていただいた方には、表題の真意が見えてきたかもしれません。そう、極論です。極論から書き始めました。そのほうが人目をひきますし、賛否両論を集めて流行ります。そうして言葉だけが残っていって、なんだかよく分からないことになっていくのです。

 真理は極論から遠いところにある。

 確証はありませんが、そんな気がするのです。陰陽論で解釈しますと、陰が極まれば陽に転じ、陽が極まると陰に転じます。極端な陰も、極端な陽も、それだけでは成立しないのが世の理です。常に変化し続ける陰陽の流れの混ざる境界にこそ真理なるものがあって、それは私たちの日常に触れるところに、そっと静かに佇んでいるのでしょう。

 たぶん4000万円は必要なくて、私は潔く死にません。だって死にたくないし。健康で長生きしていたら、楽しいことがいっぱいあるかもしれないもの。


 色々書きましたが、そんなことより私にとって重要なのは、今日の夕飯をどうしようかということです。家に食糧はあります。好きなように作ればいいだけ。飢えることのない生活、雨風を凌げる家。

 なんて幸せなことでしょう!



 拙文に最後までお付き合い頂き、誠にありがとうございました。願わくは、貴方の送る一日が、楽しい音色を奏でますように。




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渡邊惺仁
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