夢と現と現し身の話
夢に知人が現れたとき。平安時代ならば相手が自分のことを想っていると解釈されました。当時の夢は今よりずっと神聖なものだったのでしょう。
現代日本では夢を個人の脳における情報処理の副産物と考えます。しかしながら、睡眠や夢について全てが科学的に解明されたわけではありません。
後年に「そんなわけがない」と笑われるようなことを、現代の私たちも科学という枠組みの中で信仰しているかもしれないのです。科学は有用ですが万能ではありませんから、行き過ぎた科学至上主義は過剰な神秘主義と同等の危険性を孕みます。
この100年余りに科学の発展は著しく、超自然的な事象は次々と消えていく運命にあります。妖怪や幽霊の類など、とんと見掛けることが少なくなりました。しかし観測できないものが存在しないと決めつけるのは些か乱暴なことで、例えば「生命とは何か」という最も根幹たる問いに、科学は未だ解答を与えられません。理性や霊性という言葉を用いるならば、その何れにも存在理由があって然るべきだと私は考えます。
夢と現実の違いは何でしょうか。
断続的で不合理で孤独なのが夢、連続的で合理的で集合的なのが現実でしょうか。それもひとつの見方です。私たちの共通感覚を述べるならば、現実は時間と空間が連続しているはずですし、万物に通用する合理性というものがあります。そして自分以外の数多の生命が独立して存在しているという一点において、夢と現実には隔絶的な差異があるという結論に至ります。
本当に?
夢は断続的でしょうか。
憶えていないだけかもしれないのに。
現実は連続していますか。
時間という概念は断続的かもしれないのに。
夢は不合理でしょうか。
現実の法則が夢に持ち込めないのと同じく、現実に持ち込めないだけで夢の中には独自の合理性があるかもしれないのに。
哲学的ゾンビの問題を解決できない現実世界では、自分以外の主観を証明することが原理的に不可能です。それが真ならば、夢の中に登場する生き物が実在しないということを、いったい誰が証明できるでしょうか。
夢と現は表裏一体です。
そして『私』という自我は夢にも現にも存在します。この現し身は科学と非科学の境界に居て、科学を肯定しながら否定し、非科学を否定しながら肯定する在り方を保ちます。私は現実世界を生活するのと同じように、夢世界を旅します。旅は危険ゆえに遠出することは滅多にありませんが、そもそも4次元的な時空間の尺度を彼方に持ち込むのは無意味ですから、遠いも近いも空想の世界です。
稀に、そう極稀に、感受性の高く波長の合う人とは交流できることもあります。なんて非科学的な話でしょう!現代医療の手にかかれば幻覚や妄想と診断されるかもしれませんね。狂人の戯言と一蹴されるのもいいでしょう。千年後の常識など、誰にも識ることはできません。
この文章は現でしょうか。夢でしょうか。
現実に違いないと、そのようにお考えですか。夢の中で夢だと自覚することができますか。できる時もあればできない時もあるでしょう。夢の多くは、醒めてから気がつくものです。今、貴方は既視感を覚えましたか。それは過去の経験でしょうか。夢の経験でしょうか。それとも気のせい?本当に?
この文章の結末を貴方は知っているかもしれないし、知らないかもしれません。未視感と表現されることもあるでしょう。それならそれで構いません。これは実験的な文章ですから、行く末の心配など無用です。
読み終わる頃には核心部分など忘却の彼方にあって、ただ妙なものに触れたという違和感だけが残るのでしょう。それでいい、それがいい。
それで、何の話でしたっけ。
そうそう、夢か現かという問題でした。現実に決まっているじゃあないですか。何を迷うこともありません。私は今、こうしてデスクで文章を書いているところですし、これが現実でないだなんて有り得ない。
そうでしょう?
拙文に最後までお付き合い頂き、誠にありがとうございました。願わくは、暑くて重苦しい夜に、ゾッとする瞬間を。
ご支援いただいたものは全て人の幸せに還元いたします。