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あたたかなお茶
いつもどんなに明るく、楽しく、朗らかに生きているように見えるひとにも、ひとりでは抱えきれないほどのかなしみや、ふとした瞬間におそいくる痛烈な孤独の時間があって、私たちは胸のどこかでそのことを分かっていなくてはならないと思う。
そのひとの本当の部分は、いま見えているところだけではない。
私たちは他者に打ち明けたくない心をうまく隠したり、見せないでいたりすることができる。だから私たちは誰かの表面を(華やかできらきらとしている部分だけを)見て、自分より幸せそうだからといって妬んだり、比べて勝手に傷ついたりしなくてもよいのだ。
それとは反対に、このひとより自分の方がましだ、幸せだ、と思って誰かの上に立とうとする必要もない。それほどまでに傲慢に、陰険に、そして必死にならなくてもいい。
幸せというのは他者と同じである必要はないのだから、自分が心から幸福だと思える瞬間があるのならば、それで私は満たされているのだ。
しかし、いつもそう思って呼吸をできるわけじゃない。
頭で分かっていることと心で感じることとは明確に違う。頭でわかっていても、心が分かってくれないなんてことはしょっちゅうある。
私たちは簡単に揺らぎ、目に見えるものばかりを優先し、何かにつけて自分と他者を比べてしまう。世界が自分にとってひどくそっけなく感じることもある。どうしてかつらいことばかりが重なってしまうこともある。
自分を好きになりきれなくて、おふとんにくるまって夜の底に沈みながらひとりぼっちで声をあげて泣く、そういう夜を私たちは知っているはずだ。あたたかな涙がとめどなく耳もとに流れていく感触や、嗚咽を押し殺すときにぎゅっと締め上げる喉の痛み、息を吸うたびにずびずびと音を立てる鼻の奥の感覚を、私たちは知っている。
そういう夜を知らないで、誰かに対してやさしくなんてあれるだろうか?
あなたの中に誰にも癒せない痛みがあることは、決して恥ずかしいことじゃない。あなたがあなたのままで生きられる世界を望むことは、ちっとも贅沢なんかじゃない。
「あなただけじゃなくて、みんなもそうだよ」と言うと「ああ、私だけじゃなかったのだ、みんな一生懸命生きているのだ」と思って安心するひともいれば、「私は今こんなにくるしいのに、なぜくるしいところまでみんなと一緒だなんていわれなくちゃならないの」と感じるひともいると思う。
ただ、それはどちらがいいとかわるいとかではないのだ、きっと。
あなたはあなたのままでいいのだ。ときどき卑屈になることがあったとしても、あなたは世界にたったひとりきりしかいなくて、世界にひとりきりの誰かを愛し、愛されている。
頭と心がぐちゃっとからまってしまったときには、すこし肩の力を抜いても大丈夫だよ。残念かもしれないけれど、世界はそう簡単に終わりはしない。あなたが疲れたのなら自分を傷つけるものをすこし遠ざけて、好きなものを食べたり、見たり、聴いたりしたらいい。
誰かにやさしくすることと自分にやさしくすることは似ていると思う。
あなたのその無茶は誰かに強いられているものなのか、それとも自分で自分に強いてしまったものなのか。あなたが自分自身を許すことができるか、私は私にやさしくあれるのか。
あたたかいお茶をゆっくり飲みながら、ときどき休んでね。