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強姦の西洋軍事史


不可解な犯罪


僕は強姦に絶対反対だ。
窃盗も殺人も、情状酌量の余地があるケースは、あるかもしれないと思う。
例えばお腹が減ってパンを盗んだとか、自分を騙して裏切った愛人を殺したとか、「思慮が浅いとはいえ、わからないではない」とも思う。

しかし強姦には断固反対だ。
いかなるケースも許せない。
そもそも弱い者いじめは悪いことだ。
嫌だと言っているひとに、自分の欲望を強制するのは良くないことだ。
性行為は当事者が合意したうえでおこなう楽しみである。合意があればこその快楽であって、合意がなければただの苦しみと悲しみに過ぎない。
性交の基本は快楽だ。
従って「楽しくない性交」は不合理だ。
「不味い食事」「醜悪な花」のようなものだ。

強姦のなかでも、特にわからないのは戦争中のそれである。
まったくもって異常としか思えない。どうしてそんなことができるのか。
戦争は肉体労働だ。一生懸命に戦えば、へとへとに疲れているはずだ。
どうしてそれなのに、強姦をしたいという気持ちになれるのか。
戦い疲れた後に為すべきは、死んだひとたちへの静かな追悼であろう。
何故、さらなる阿鼻叫喚のなかでの性交へと走るのか。不可解である。

わからないことを、わからないままにしておくのは気持ちが悪い。
だから勉強する。
そんなわけで、ジョゼ・クベロ『女性と兵士。中世から現代までの強姦と戦争暴力』(José Cubero, La femme et le soldat, Violes et violences de guerre du Moyen Age à nos jours、Paris, 2012)を読んだ。

以下はクベロの分析の要約ではない。
読みながら、なんとなく思いついた疑問、妄想、仮説をノートしておいた。


性暴力と戦争の歴史


有史以来、西洋世界では常に戦時における強姦は存在した。
しかし太古から常に存在したとはいえ、その社会的イメージは変化した。当然である。社会は常に変化しているのだから。

古代において、女性は戦争の獲物であった。「サビーニの女たち」は有名な逸話だ。
ところで獲物とは宝物である。誰もわざわざ馬糞を盗まないが、宝石は争ってでも盗む。
つまり基本的に女性は価値であった。強姦とはこの価値あるものを「盗む」ことであった。

中世になって、ひとは女性を社会秩序という価値としてみなすようになった。
かくして騎士は、社会秩序に抗して反乱を起こした農民が貴婦人を強姦することを、恐怖した。貴婦人に対する強姦は「社会秩序の転覆」を意味した。
しかしながら別の見方をすれば、強姦は、女性(=社会秩序)は男性(=騎士)によって守られなければならないという意識を生み、男性の女性に対する支配(=保護)を確かなものにしたと言える。

近世になると、強姦は侵略者によって「占領地征服のための手段」として用いられた。
住民を恐怖させて服従させるために、娘、母、妻は、父、息子、夫の前で強姦された。男は愛するものを守ることができなかった無力感にうちひしがれ、女は罪悪感で抵抗できなくなることが期待された。
侵略者の新しい秩序の確立のために、古い秩序は傷つけられなければならなかった。

状況が大きく変化し始めるのは、19世紀である。
平和が戦争よりも優越する価値として登場したのだ。
剣を持った勇者が、たくさん敵を殺すことができるというだけで、無条件にもてはやされる時代ではなくなったのだ。
芸術と科学を享受する平和がまた価値としてみなされるようになり始めた。
その結果、強姦は女性=秩序=平和を傷つけるものとされ、弁明の余地のない「犯罪」とされた。
19世紀半ばになると、戦争の無秩序=強姦を、諸個人からなる市民社会の意思で管理しようとする運動があらわれた。国際刑事裁判所の起源である。

他方、アメリカの南北戦争では、開拓時代からの、女性を希少価値としてみなす伝統のおかげか、白人女性への強姦は幸いに限定的なものでしかなかった。しかし黒人女性への強姦は不幸にも頻繁に行われた。暴行は黒人にふさわしいものだとされたのだ。

ここでやや話を脱線させて言及しておくと、常に物議の対象となったのは、良妻賢母、純真な娘に対する性暴力であって、売春婦に対する性暴力ではなかった。売春婦は黒人女性と同様、強姦が許される対象とされたのだった。従って強姦という問題の本質は、やはり社会的文化的規範の問題であって、女性全般への差別の問題ではないのではなかろうか。

さて第1次世界大戦のさい、文明の名のもとに戦っていたフランスにとって、ドイツ軍による強姦は「野蛮の支配」の象徴であった。
ドイツ軍による強姦は、フランス軍の戦争プロパガンダの主題となって、フランス世論を義憤へと駆り立てるのに役立った。
しかし戦後、強姦の被害にあった女性たちは、常に犠牲者として同情され続けたわけではなかった。ドイツ兵と好むと好まざるとにかかわらず内通した者は、裏切り者と疑われ、迫害の対象となった。
要するに、第1次世界大戦期、強姦の被害にあった女性は、それ以前に比べて大切にされなくなったのではなかろうか。重要なのは、敵への報復攻撃であって、被害者ではないというわけだ。
19世紀における産業革命と民主化の後の20世紀、西洋の女性はそれ固有の象徴的価値(獲物・社会秩序・平和いった意味)を失ったのではなかろうか。
かくして女性は21世紀まで続く広義の「総力戦体制」に飲み込まれていったとは考えられないだろうか。そのとき女性は女性としての象徴的価値を剥奪され、国家という戦争マシーンのひとつの歯車として、男性と差異化されることなく利用されるようになったのだ。

女性兵士


ところでクベロは女性兵士については言及していない。
しかし「総力戦体制」のもと、女性はまた兵士になった。ただ「総力戦体制」の〈女性兵士〉は、革命期に突如姿をあらわす〈女性革命戦士〉とは違う。両者は似て非なるものである。前者は機械化の必然的結果として現れるが、後者は政治的理念の必然的結果として現れる。

さて21世紀、女性兵士が戦場を駆ける姿を、我々はしばしば目にするようになった。実際、アフガニスタン戦争およびイラク戦争の過程で、テロ容疑者として逮捕され、グアンタナモに収容された男性イスラム教徒は、しばしばアメリカ軍の女性兵士によって強姦された。
かくして女性は男性と同じように戦う権利を得ただけではない。強姦もできるようになったのだ。こんな日が来ることを、サビーニの女たちは想像していなかったに違いない。


おまけ(陰惨な本文のあと、どうしてもお口直しがほしかったので)



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