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南北朝時代の北魏が意外と面白い!【徒然読書×温故知新PJ③】
日本では、鎌倉と室町の間に南北朝時代があります。
後醍醐天皇の建武の新政(1333~1335)に足利氏が対抗して勢力を広げていき、北朝と南朝で内乱が起きました。
京都と奈良に別の天皇がいて、朝廷の勢力も武家の勢力も分かれていました。
最終的には足利義満の時に北朝に吸収され、1392年に統一されたのです。
では、中国史にも南北朝時代があったことをご存知でしょうか?
時代の流れとしては、三国志→五胡十六国→南北朝→隋→唐になります。
前回の記事で書いた、4~5世紀の話です。
気候変動によって遊牧民が南下してきて、もともとそこに住んでいた漢人とどう融合していくか対立するかの試行錯誤が行われていました。
そうした状況の中で、南北朝時代は北魏が439年に3代皇帝太武帝が華北統一をしたときから始まります。
華北には北魏以外にも北燕や夏など遊牧民の勢力がありましたが、各勢力を滅ぼして、統一したのです。
そして、遊牧民主体の北魏(北朝)と漢人主体の(南朝)が並立状態になりました。
美術館に行くと、時折北魏関係のものを見るときがあるので、北魏とは?と疑問に思っていました。
まず、北魏は鮮卑の拓跋氏の王朝です。
北魏は拓跋珪(道武帝)が、398年に建国しました。
遊牧民だから、漢人の文化は受容していないのでは?と思われるかもしれませんが、そうではなく、律令や官人制、土地制度を採用しています。
ですが、遊牧民中心の政策もありました。
皇帝と北族(鮮卑をはじめとした遊牧民族)の紐帯を強めるために、内朝官という侍従職が置かれていました。
有力氏族の子が皇帝の側で職務をしながら、幹部候補生として教育される感じです。
うまくどちらの不満を抑え込んでいく政策ですね。
文化面で有名どころというと、三武一宗の法難の1人が北魏の太武帝です。
前述したように華北統一した人ですが、仏教ではなく道教を重要視して、仏教を排除しました。
まだ日本に仏教が入っていない時代ですし、中国でも仏教をどう扱うかの過渡期だったのでしょう。
5代目の文成帝で仏教は復興し、世界遺産にもなっている雲崗石窟が作られました。
皇帝と大仏が同一視されていたことを示す仏像です。
この北魏から後の隋や唐が生まれていくのです。
まだまだ深めきれていないですが、今日はここまで・・・
日本の南北朝時代と違うのは、まずそれぞれの民族自体が違うということと、北朝と南朝は同じ国ではないということですね。
南北朝時代って一括りにしているけれど、中身は全然違うと思います。
歴史は似たような現象が少しあると、同じ用語でまとめてしまうところがあります。
だからこそ、用語で先入観をもつのではなく、事象・出来事を並べて、俯瞰的視点で眺める必要があると思います。
どちらの南北朝時代も調べていくと、面白そうなので、引き続き本を読んでいきたいと思います(内乱状態というのもあって、史料があまりないのが痛いところ・・・)。
まだ読み終えていませんが、今回参考にした本はこちらです。
ここまで読んでくださりありがとうございました!