明と琉球の貿易について①【温故知新PJ⑨】
海上交通と大陸国の動向について、調べていたときに、明と琉球の関係に興味を持ちました。
明は元の次の王朝で、海禁政策を行っていました。
そうした閉鎖的な貿易体制において、琉球が果たした役割は大きかったのです。
なぜ琉球の存在が大きかったのかを、明までの貿易体制を振り返りながら、考えてみました。
南宋後期(13世紀中後期)には毎年複数の船が往来するなど東シナ海の貿易は好調でした。
その時代では日本側の貿易管理が消滅し、民間貿易が盛んになっています。
それは南宋の次の元と日本の間での軍事的対立および海商の暴動事件まで続きました。
軍事的対立や暴動事件によって、元との貿易は短期的な断絶を繰り返していたものの、貿易自体が完全に禁止になったわけではなく細々と続けられていました。
だけれど、14世紀末になると中国国内で干ばつや黄河の大反乱も起こり、「紅巾の乱」という内乱も頻発しました。
元の影響力が弱まり、群雄割拠の時代になります。
日本の戦国時代のような状況です。
そのなかで有力であったのは、集慶の朱元璋、蘇州の張士誠、台州の方国珍でした。
朱元璋は、1367年68年に立て続けに張士誠と方国珍を滅ぼします。
1368年に明を建国した朱元璋でしたが、張士誠と方国珍の残党が倭寇と連携し、反乱状態は続いていました。
「倭寇」は「倭」とあるから日本人のみの集団だと思われがちですが、近年では中国人や朝鮮人も加わっていたという説が有力です。
さておき、そうした海の反乱に対する治安維持対策として、1371年に海禁令の初見があります。
初期の明はどちらかというと外に対して閉鎖的でした。
反乱を起こして建国したのですから、中を固める必要があったのです。
そうした状況では、海の反乱はどうしても抑えなければならず、貿易を通して臨海部の残党が力をつけるのを阻止する必要がありました。
そこで出された海禁令では、出航手続が必須でした。
1374年になると、貿易を行う者は海禁違反者となりました。
つまり、海禁と貿易禁止が一本化されていったのです。
そうした中で合法的に貿易ができなくなり、唯一の貿易の機会が「朝貢」でした。
「朝貢」とは明に対して従属を誓い、「冊封」を受けるという関係です。
だけれど、明からもたらされる富は莫大なものですから、周辺国は偽物の使者を出してでも貿易しようとします。
そこで、正式な使者のみ(明が認めた国のみ)に絞り、公式性を担保するために「勘合貿易」が始まりました。
最終的に、1397年に残ったのは安南(ベトナム)、占城(チャンパー)、真臘(カンボジア)、暹羅(タイ)、琉球のみでした。
15世紀に入ると、琉球の存在感が増していくのです。
次回は琉球の興隆と衰退について、書きます。
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【参考文献】
・上里隆史『新装版海の王国・琉球 「海域アジア」大交易時代の実像』ボーダーインク 2018年
・高良倉吉『琉球王国』岩波新書 1993年
・檀上寛『明代海禁=朝貢システムと華夷秩序』京都大学学術出版会 2013年
・村井章介『古琉球 海洋アジアの輝ける王国』角川選書 2019年