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ACT.65『宗谷滞在〜音威子府編(前編)〜』

集う人々

 音威子府に到着し、ゲストハウスに向かった。駅から徒歩1分。駅に到着し、旭川方面に切り替えしていく気動車に宗谷本線を駆け抜けていく気動車の音も聞こえる、列車との距離感が近い場所だ。
 この場所を知ったのは。このゲストハウスに宿泊しようと考えたのは、Xを漁っていた時の事。『音威子府TOKYO』というアカウントにて、音威子府にゲストハウスがあるから宿泊に来てください…との告知を発見したからであった。それ以降気になっており、ずっと機会を窺っていたのだったが今回の宗谷方面に向かう旅路で世話になる事になった。
 宗谷本線の長さ。列車で道北を渡っていく事への時間の長さ…はここまででヒシヒシと感じるものである。ここまで来ても、まだ先があるのだから宗谷本線は本当に長い。かつては夜行急行に、特急列車も走行したまさに『本線』の名前が相応しく似合う路線であった。そうした場所も、自分が訪問した際には特急列車が旭川・札幌方面に往来するだけになっており、駅の廃止に路線の縮小を検討された状況となり、その本線としての威厳は現在に存在していないと言っても良い。
 さて、この宿に到着した時。
 乗車した名寄からの普通列車と同じ道を歩んだ若者がいた。
 宿に入って、チェックイン。さて…荷物を置いて個人情報の書類に記入し…とダイニングに着いたところ、まさかの
「あれ…?同じでしたね?」
と目が合い、同時に話が始まるキッカケになってしまった。
「まさかでした。笑。こんな事なら横に座って話せば良かったです…。美深ではカシャカシャ撮影していて鬱陶しかったでしょ?」
この時点で話が弾んだ。凋落の本線にて。威厳を失った集落を行く鉄道の一角では、旅路も重なるものだった。
 この宿の名物として、音威子府そばを提供している飲食店…を兼業で営業している事にある。そして、宿泊した客には『音威子府そば』が通常料金より割引かれた金額で食せるとして人気の宿でもある。
「そば、どうしますかね?」
「僕は朝にします。折角ならどんなものか、最初は見ようかと思って。」
「じゃ、僕は今から。」
「は〜い。時間になったら呼ぶから待っていてね、しばらく湯がくの時間かかったりするから。」
自分だけ朝に食するという事情で時間がかかったのだが、音威子府の名物。音威子府そばが提供される瞬間に立ち合った。
 かつては音威子府の駅構内で『駅そば』として開業し、駅の中でも食せた音威子府の名物的な食べ物だったのだが現在は非常に食べれるヶ所がが少なくなった幻のそばである。現地を訪問しなければ食べられない…また、この味に魅了されし蕎麦職人が再現に全力を注いだとして、東京で蕎麦屋を開業。そしてその場所でしか食べられないものとなった。

 写真は宿に入る前に撮影した音威子府駅に佇む車両の記録だ。音威子府のゲストハウスでは、既に到着時間の影響で眠りに入っている宿泊客も大勢いた。自分たちはかなり遅い時間での到着だったようである。それもそうか。時刻は既に21時を回っている状況であった。旅の中では。そしてここまでの集落では遅い時間に相当するだろう。
 自分はこの宿で、ドミトリー式を選択して翌朝までを越した。宿に到着し、綾部方面で倒竹の影響で列車の流れが寸断。そして宿の日程などを変えたあの時刻や一連の動きを思い出しつつ、ここまで来れた事への感動を思ったりした。
 ドミトリー部屋は4人から6人までが宿泊できるような部屋割りになっている。自分はその中の端のベッドにて宿泊する事になった。自分の横のベッドには、また1人旅人の姿が。明日までの時間を過ごす為、
「こんばんは…」
と苦笑混じりに挨拶をする。
 少しづつ話を伺っていると、横の旅人は大阪から来たらしい。しかも、自分と同じくして新日本海フェリーに乗船して小樽から北海道を訪問したようであった。まさかここでも同志に立ち会うとは。
 しかし、北海道の道民という方には殆ど会えず、自分の周辺で見たのは大半が道外の旅人ばかりであった。
 聞くところによると、自転車で宗谷本線の廃駅巡りをしているようであった。
「自転車って軽いですか?自分も輪行とか考えてるんですけど…」
「いや、これは軽いし楽に走れますよ。」
などの会話を。大阪からの旅人とは、自分がこの日バスから眺めた留萠本線の廃駅の話をした。

※留萌本線を並行に走るバスの車内より。大和田駅(とされる)廃駅の様子。旅人たちとは、廃止に向かって止まらない歩みをするJR北海道の現状を語るなどした。

 宗谷本線も随分と錆びれましたね…との会話や、自分が訪問した中では留萌本線行きたかったんですけど、間に合わなかったんです、など。自分たちの旅の話を深め合う時間となった。
 駅からの近い場所。そして音威子府という村の中でゲストハウス。旅人を受け入れる場所が少ない影響なのか。多くの旅人と様々な話をしたような記憶が残る。しかし、もう既に書いている最中であまりそうした事も朧げになろうとしているのが何か悔しさに残るが。
 この中では、貨車駅舎に関する話も出た。民営化を迎え、廃車になった貨車たちの現在が北海道で再就職を迎えてこの貨車駅舎になった事なども。
「あぁ、言われてみれば!!」
廃駅を訪問している人でも、貨車を再利用していると気付いたのはあまりないようで、自分が少し珍しいのかなと思ったりもした。

未知の車両・未知の感動

 名寄方面からの旅人との同席・同乗になった結果の車両、キハ54形。この車両に関しては前回も記したように、車内の雰囲気が断熱・防寒などを極限まで意識した結果、車両としてのスペックが(内装だけだが)特急並みになったのが特徴的なのだ。前回記事ではそこまで大きく触れなかったが、この部分を少しづつ乗車後ではあるものの掲載していこう。
 車両に入って、まず目につくのは上等に感じるこの座席である。キハ54形の中で、500番台の車両に関しては番台内での形態や派生があり。中には0系新幹線からの廃車発生品を使用している番台も存在している。
 自分が乗車したキハ54形に関してはそうではなかったのだが。

 しかし、この車両には普通用車両。そして急行列車としての充当に向いているような?としてこうしたロングシートの設置もある。偶々かもしれないが、優先席部分と通常の座席でしっかり区切っているのが面白い。
 名寄からは空気輸送も同然の状態だったので、ロングでもクロスでも座り放題だったのだが、このロングシートも非常に良い座席であった。
 そもそも、この北海道のキハ54形は全体的な車両としての質。車両として感じられる質感が全体的に高く。乗車していても長時間で全く飽きのこないようになっているのが特徴的なのだ。流石は一時的に急行への充当も経験した車両である。
 吊り革も少しだけ張られているが、乗車して感じた印象は通勤形という感想では全くなかった。

 国鉄末期の製造で、キハ54形はギリギリではあるものの『国鉄形』にランクインする車両だ。
 キハ40形と比較すると影の薄さ。そしてキハ40形と比較するとキャラの狭さを感じる車両になってしまうが、この車両はギリギリの国鉄型車なのである。
 と、自分の乗車した時期。夏だけしか撮影できないヶ所が稼働していたので撮影した。
 扇風機である。この部分。冬季にはカバーを掛けられて稼働しなくなるので、夏季しか稼働を撮影できないのだ。
 しかも、国鉄形としての威厳なのか登場した時期なのか、扇風機の真ん中には『JNR』のマーク。そう。この隠れた『国鉄』の要素が、キハ54形の面白い要素として車両に生きているのだ。
 ちなみに。扇風機を回しているという事は車両に冷房を搭載していないという事でもある。(前回にも冷房を搭載していない事実は記したが)北の極寒の線路で尽くしていく事を、車両として語る部品だ。しかし、夏もこれだけ酷暑になるという事は国鉄の人々も想像はしていなかったろう。
 涼しい状況下だったものの、扇風機ではやはり足りない感触を覚えた。

 JR北海道で活躍するキハ54形の中に於いて特徴的なヶ所が、このデッキだ。
 デッキの設置は、極寒の大地。北海道で生きていく決意のようなものであり。絶対に乗客に冷気を流さないぞという確固たる決意も感じられる鉄壁である。
 『禁煙』のサボ部分。そして便所の使用知らせ灯が確実に車両の急行形のような雰囲気を明るくしている。
 しかも、便所の知らせ灯に関しては拡大して接近してみると『知らせ灯』ではなく、『知らせ燈』になっているのだからこうした漢字の使用する1つ1つでも、国鉄を感じられるものだ。
 車両としてはキハ185系に近い年代であり、共に走ってきた時期も近い同車である。しかしここまで国鉄のような面影を感じられるのは、キハ54形だけの独特な何か…というより、物持ちの良さを示しているようにも感じられる。いつまでもこの空気感を持って走ってほしいものだ。
 そして、デッキから覗き見る運賃表。
 運賃表があるという事は運賃箱もデッキ外にあり、自分のように運賃管理や乗車した先の事をあまり考えない人間にとっては
「こんなん降りる前ににテンパってしまいそやわ…」
と何か違う事まで過ってしまったのだった。
 いや、まぁ。確かにそうかもなんだけど。

 そして銘板には、新潟鐵工所の文字。現在の日本鉄道界では気動車製造の名門となった製造場所だが、現在は新潟トランシスに名を改めたのできちょうになった文字表記だ。
 現在は北海道でも、デッキを搭載する普通用の車両は少なくなってきたのだがその中でも、この渋さを感じる銘板は忘れないように観察したいところだ。
 そして、平成4年の釧路での改造を示す銘板。北海道暮らしも安定し、現在でも看板として活躍している車両なのだと感じる1つであった。
 釧路運転所に関しては、調べると道東の車両を管理している1つの区所であり、最近ではキハ141系を受け入れた場所でもあった。
 苗穂の車両所に近い機能と同じようなものを持っていると推察されるが、自分でもこの周辺は分からないのでまた機会があれば調べてみたい。
 そういや、釧路は駅舎。釧路駅舎が日本の中で現存する唯一の国鉄管理局時代の駅舎があるのだという…機会があればそちらの訪問の際には詳しく知りたいところだ。

※名寄に関してはキマロキ編成の訪問をメインに訪問した。当連載の前記事。前々記事をお読みいただきたい。

 宗谷本線を歩いてきた中で、名寄方面から同乗した乗客…今夜同じ屋根になる宿泊客とは特に大きく話が進んだ。
 個人情報の書類を先に書いていたときに、
「あれ?関西なんですね?」
とこの瞬間に意気投合した旅人だったのだが、この旅人がまた自分にとって未知の感覚を教えてくれる人であった。
 なんの経緯だったろう。偶々
「そうですね…実は自宅に選手サインがあって…」
と話をした時に
「え?僕実はロッテファンなんです。」
「お?」
ここからまさかのパ・リーグ党の血が騒ぎ、意気投合となった。更なる結束・結託の加速だったと思う。
 同行した旅人は先に洗濯物を宿内にある換気扇で回し、そして洗濯もしている最中であった。自分も少し旅が長くなってきたので洗濯に…と寄った矢先であった中だった。
 応援歌の話。昔の選手。そして今年のチームの活躍と色んな話に進んでいった。しかし、勝手な話になるのだが
「オリックス好きなんですか?いや〜強い。おめでとうございます。」
と言われたりするのは、まだ慣れていない。やはり何処かでむず痒いというか、恥ずかしいような気持ちがある。ファンがこの事実をイチバン受け入れられていないのだ。
 その千葉ロッテファンの方は、滋賀県在住ながら(出身はどうだったか)。京セラ大阪に通ってビジター応援を熱心にした時期があったのだという。現在はどうだったか、そこは記憶から抜け落ちた部分なのだが。
「中村奨吾とかアレ絶対に団結して歌ったら気持ち良いじゃないですか…羨ましい…」
「いやいや、オリックスのがカッコ良いし日本語難しいし、大変ですって。」
互いの謙遜。そして褒め合いの時間。まさか最北は音威子府に来て関西のロッテファンに出会う体験をするとは感じてもいなかった。
 宗谷方面にどれだけ野球の認知があるかは不明として、こんな場所でパリーグの話をするのは完全に想定外だった。旅に集った人々に感謝である。

※後半の拠点に近い扱いになった、旭川での運賃表。最北の地、稚内までの文字が見えた瞬間は安堵というか鉄道の底力を感じる瞬間であった。

 滋賀県からの意気投合した旅人とは。パリーグに千葉ロッテもそうだったが、北海道の現状。そしてお互いの旅の流れを話したのも含まれていた。
「JR北海道は宗谷本線を短縮しようとしてるんでしょうね。もう名寄から先を廃線にしても大丈夫な覚悟が感じますよ。」
「そうです?ん〜まだまだ持ちそうですけどね…」
旅人は、宗谷岬もそうだが宗谷方面の鉄道への危機感を感じてこの場所・音威子府を訪問しているようだった。自分は全くそうした自覚がなかったし、名寄から先の事は全く思った事がなかった。
 自分は小樽方面に用があり、そのついでになら北海道を行くとこまで行ってみたい…との思いで今ここにいる。のような話をした。
 道中、この先に様々な人から
「なんで北海道に来たの?」
と聞かれたが、あまり旅に精通していなさそうな人に
「電気機関車が解体を迎えそうでその為だけに」
と伝えるのも難しくなり、もう1つ抱えた別の理由を話していた。その理由に関しては、また後ほど。
 滋賀県からの旅人は、北海道&東日本パスを使用しての北海道周遊をしているようだった。既にフェリーも使って青函の海上移動もし、旅人としての貫禄まで自分は勝手ながら感じた次第であった。自分の旅経験の無さにというか、自分の未熟さに低頭してしまう。
 本来なら秋田に行って。五能線に乗車して観光列車『しらかみ』号に乗車予定だったそうなのだが、五能線の全線再開見込みがないので先をどうするか迷っているという。そういやそんな時期もあったものだ。

※代用に掲載する路線図。JR北海道では特急列車に乗車するとフリーペーパーが貰えるのだが、その中には路線図が地図としてしっかり記されている。勿論?本州との比較もなされており、北海道での鉄道旅には必携の1冊である。

道思うて

 宿の中には、様々な掲示物に本棚での書籍陳列など、宿泊人…旅人を飽きさせないような設備が充実している。
 その中にも、自分が宿泊中。シャワーを浴びて以降なども自室付近の壁にあったモノで何回も見返したり、自分で色々考え込んでしまったものがある。この宿では非常に印象的なものだったと言っても良いであろう。
 全国の鉄道路線図であった。この路線図に関しては、印象的だったのに…記念写真なども撮影していないのが非常に悔やまれる。そして、路線図には全国の鉄道が記されている。JR北海道は勿論。南はしっかりと九州まで記し、全国の鉄道の路線網を網羅している状態であった。
 指宿などの町が目に入った際には、
「あぁ、今年は山川までしか行けなかったなぁ」
と感じたり、京都は綾部に亀岡付近が見えた時には
「自分はこんな場所から来たんか。そんにしても遠いわな…」
と感じたり。路線図で自分の心を何度も動かされた。
 しかし、記念に宿内掲示の路線図を撮影していないのも悔やみになるのだが、基本的に宿泊地での撮影。宿舎内での記録がないのを自分はついつい思ってしまう。思い出して、こうして文字にする瞬間に
「もう少し記録として残しておけば良かったもんだな」
と感じてしまうのであった。
 今回は代用にJR北海道フリーペーパーの巻末にある路線図を掲載するのだが、北海道は自分の宿泊した中で最北の音威子府で見た全国規模の路線図は、忘れられないものになった。
 しかし大人になって権力行使ではないが、本当に様々な場所に鉄道で行ったものだと感じさせられる。まだまだ手薄な地域などはあるが。
 路線図の他にも、JR北海道を中心とした鉄道書籍が収蔵されていたので、何冊か攫って読んでみた。
「あぁそうなんだよな…あまりにも自分が素人すぎる…」
「こんなんもあるのなら、行っておけば良かった…」
攫って読むだけでも。軽く立ち読むだけでも、本は学びや発見、体験をくれるものだ。自分の中では、次回の北海道旅で実践や挑戦できそうな発見が幾つか見つかるのであった。
 この日は、壁に掛かった路線図に北海道の鉄道を見たりして、他にも集った旅人との話を交わして。そのまま就寝の時となった。
 宿からは入換してそのまま旭川方面に向かうキハ54形に、旭川方面へ向かう特急宗谷を確認。鉄道との距離が近く、シャワーを浴びたり宿でぼんやりとベッドに寝ている時間…などで鉄道との距離感の近さを感じる宿だった。
 エンジンサウンドがとにかく心地よかったのだ。
 是非とも宿泊を推奨する宿である。宿泊環境…というか、全体的に宿としての質も非常に良い。胸を張ってオススメできる。

アイヌの地で

 翌朝。始発列車より遅く目が覚めたのだが、列車時刻表などを確認してカメラを片手に音威子府の駅に向かう。
 稚内方面から、キハ54形が入線してきた。いつものように軽快なエンジンサウンドを鳴らし、静寂の村に一筋の賑わいを与える。
 撮影しているだけでも楽しい車両だと自分はこのキハ54形を見て思う。北海道を訪問した気動車ファンの大半はキハ40形といった国鉄フェイス(いかにも)に食指を動かされがちだが、自分の中では新時代。新機軸を少し見据えた感じのキハ54形も捨て難い。
 今回は遭遇しなかったが、特別な地域ラッピングにアニメ・ルパン三世のラッピングがされた車両もいるという。是非とも遭遇してみたいものだ。
 として、朝の村に汽車が往来する。
 曇り空のどんよりとした空気感にも負けないステンレスの車両が、乗客の少ない駅に主張するような存在を放つ。敢えてフレームアウトにして撮影したが、車両の格好良さが出て良くなったと少しだけ手応えを得る。良い朝を迎えることが出来た。

 音威子府の駅とキハ54形。
 朝の風を浴びて、車両は旅路の休息にと停車する。この日の空は芳しくなかったのだが、背景に聳える風景は壮大そのもの。そして、北海道の携える大自然を感じられる。
 村を切り拓いて。村民や生活している人々の存在があって鉄道が完成し、多くの人々が土地を献上した事によって鉄道が走っている事を感じさせられるような背景でもある。
 いかにも原始的というか、この場所で鉄道と朝を迎えると気持ちが普段と異なってくるのだ。普段の爽やかな。清涼感を感じる気持ちとはまた別の壮大さが感じられる。
 しかし、宿泊客の中でもこうして意気揚々と撮影に列車へ向かって行ったのは自分だけであった。他の人々は先に出発ないし、宿内でじっくり寛いでいるだけである。
 乗降の客も少なく、宗谷本線の長閑な1日の始まりに立ち会った。

 まさしく…というか。北海道らしいというか。身も心も洗われるような写真が撮影できた。
 曇っていたとしても、ここまで背景が見渡せるのかと驚愕してしまった。山の切り拓かれた部分が、しっかりと痕跡に残っている。残照として、感じられる。撮影してから自分で1人、自然と村民たちの作り出す壮大なる光景に驚いていた。
 …では。
 この項のタイトルである『アイヌ〜』に関して、少しその琴線に触るような話を記していこう。
 音威子府という言葉は、読めない人の為に改めてだが『おといねっぷ』と読む。この特殊な漢字の配列。そして特殊な読みは北海道の先住民族・アイヌの人々の言葉が現在にも伝承され流用されているものである。
 音威子府=おといねっぷ…この言葉は、アイヌ語にて(先住民族が使用した言葉)にて、
『泥の濁った川』
という意味があるのだそうだ。
 そして、この音威子府の村は北海道の村で最も小さい規模を誇る。村公式のサイトにも記され、この音威子府の地の名物にもなっているようだ。北海道ではこうして、旅をしているだけで。土地に触れるだけで、アイヌに関して。そしてアイヌの生きた証拠を多く感じられる。
 鉄道だけではなく、こうして土地から郷土を感じられるような旅に出てみたいものだと今では調べをして感じているものだ。

幻!これが秘境の名物…?

 この宿に宿泊するとき、自分はついつい。というか予約時にこんな言葉を電話で残していた。
「音威子府って事は…そばあります?音威子府って言ったら有名だと思うんですけど…」
「あぁ、ありますよ。音威子府そばね。普通より黒いの。」
音威子府といえばこの『黒々したそば』であり、その知名度は全国クラスになっている。このそばを食する為に宿泊する価値もあり、自分のように道外からの旅路で訪問する客もいる。
 昨夜の話になるが、自分と同じ道を歩み。そして同じ宿舎で宿泊した旅人も、このそばを目当てに訪問していた。
「音威子府TOKYOで食べられるってあったんですよ、知ってます?」
との話を振ると
「ありましたね〜、それ!!」
との意気投合もあり、非常に上手く話が進んだ。
 同じ行程を歩んだ旅人は先に音威子府そばを冷状態で食し、自分は翌朝まで待った。
「うん!!コレめっちゃ美味しい!!」
その時、自分は意気投合した旅人の食する音威子府そばをまじまじ見るだけで終了したのだが、翌朝に自分の番が回った。
 宗谷本線の列車を撮影して、自分のベッドで少しだけ仰向けになる。そばに関しては注文が入ってから湯がく為、
「そば、湯がいてください」
と言葉を残してから宿舎内のベッドで仰向けになり、今日の事を考えていた。
「宗谷岬に行って、そこから旭川に…で、最初は豊富なんだよな、居るんだろうか…」
そう考えて少し眠気が回ってきた折に
「そば、出来たよ〜!」
と宿の主人の威勢よい声が聞こえる。ダイニングへ向かって身体を起こし、向かった。
 写真の蕎麦が提供された。音威子府そばである。改めてだが、通常の蕎麦より『黒々としている』のが特徴なのである。
 では少しだけ、その仕組みなどを解説していこう。

※通常のそば。同じように冷状態・ざる…という状況での提供写真になるが、麺の色が薄いめ。そして灰色の色味をしているのが特徴である。本州では。全国ではこの状態が通常の『蕎麦』というものではなかろうか。

 そばとは、色々な食べ方のある食材である。我が国では、麺にして食するのが一般的だ。
 現在のそばの食べ方の形態…日本に於けるそばの普及が始まったのは、江戸時代頃の中山道での話だ。街道沿いで提供されたので、参勤交代時に多くの大名の立ち寄り。そして旅人たちの交流にてその評判が広まり、そばは一躍にして国民食への地位を上り始めたのである。
 と、ここまでが我が国でのそばの形態の始まり…として写真にあるようなそばの原点を記した。
 さて、音威子府そばとの違いは何処にあるのだろうか。それは、そばを作る上での『工程』に存在しているのである。
 そばを収穫した際には、実を収穫して脱穀。そしてその後に蕎麦を粉にする。製粉された粉を購入してそばを作る場合には、そのまま水と小麦粉を混ぜての麺作りへ移行していく事になる。
 この中で、違いがあるのだ。
 通常のそばでは、機械や石臼での粉挽での工程で、蕎麦殻・そば米などに分かれる。音威子府そばでは、この周辺が異なるのだ。

 改めて、音威子府そばの写真を見てみよう。
 音威子府そばは、そばを挽く時に『そばの実の甘皮と一緒に挽く独自の製法』を行っている。
 この工程が音威子府そば独特の香り高さ。そしてそばの香りを直接感じられるような風味のある仕上がりに仕上がるのである。
 実際、食してみると
『そばという作物・穀物の深い味わい』
を胃に到達するまでの時間で覚えられ、喉にスーッと引いていく自然みのある感触を確かめられるのだ。これが本当に、麺類の常識を変えてくれるような体験で非常に良かった。また食べてみたくなった…のだが、この蕎麦を食べるのには最北の大地まで訪問せねばならない…のだろうかと思えば、そうでもなかった。
 実は宿の主人さんに聞いたところで。そしてこのパートに差し掛かる際に『音威子府そば』に関して調査をしていると、
『伝統のある音威子府そば、途絶える』
という記事が存在していた。更にその記事を調べていくと、現在の我々が食している音威子府そば…は、『新・音威子府そば』と呼称するようだ。この背景を調査してみた。
 音威子府そばは、現在の音威子府でかつて90年近くの伝統を保持したそばであった。しかし、令和4年の8月に転機が起きるのである。
 音威子府そばの伝統を最後まで保持していた音威子府駅構内の蕎麦屋・『常盤軒』が閉業してしまったのである。理由は、『店主の高齢化による逝去』であった。
 そして音威子府そばの伝統。歴史は
『技術継承の困難・味の変化で評判の低下を防止』
として塞がれてしまったのである。元より、音威子府でのそば産業は希少性の高さ。そして生産量も元来より多くは無い為、貴重な観光資源になっていた。どうにかして復活させねば…として、その機運は全国に残されたのである。

※村の小さな集落環境ではあるものの、鉄道は道北の幹線・宗谷本線が貫き交通を支えている。写真は音威子府駅に入線する宗谷本線の普通列車。

 音威子府そば復活への動きは、北海道を遠く離れた場所で動き出していた。
 その流れにいち早く動き出したのが、千葉県・茂原市の食堂であった。ここで、音威子府そばの製法を知る人々よって歴史が動いたのである。
 千葉県で食堂を営んでいた場所が、奇跡的に音威子府村出身の経営者によってそばの試行錯誤開発が始まる。
『どうすればそばは黒くなるのか。』
という研究のもと、日夜開発が進行した。
 そして、音威子府そばが『新・音威子府そば』として奇跡の復活を果たしたのである。音威子府村出身者
『持続可能な産業へ』
『故郷・音威子府村への貢献』
として、千葉県で復活を果たしたのである。
 まだまだ復活へは動き出したばかりになっているが、道北独自の環境によって希少性のあった幻のそばは着実に普及への足取りを歩んでいる。
 そして、現在は東京都でもこの『音威子府そば』を食する事が可能になっている。それが、この宿を宣伝して知るキッカケになった『音威子府TOKYO』だ。東京都は新宿。地下鉄で言えば、四谷三丁目の周辺で食する事が可能だ。
 たまには、音威子府の雰囲気を。そして道北の小さな村に想いを馳せて、黒いそばの昼食はいかがだろうか?
 …と。そうこうしている間に音威子府そばを食べ終わった。なんというか、今まで食べた麺類の概念が変わる一品であった。またいつか、
「紹介してくれた宿行きました!!」
の恩返しとして、次は四谷で食そうか。早くも再会を望む気持ちである。

アイヌに支えられる旅路

 美味しい秘境の食事にあり付けた場所として。宗谷縦断の足がかりになった場所として。この宿を紹介・宣伝しよう。
 宿の名前は、『イケレ音威子府』という。音威子府駅から徒歩1分圏内のゲストハウスだ。自分が宿泊した際にはドミトリー式が中心となっていたのだが、最近になってプライベート式の個室も宿に誕生したらしい。綺麗で水回りも最新のハイテク。そして宿のリラクゼーションにレイアウトも完璧な旅の休息地点なので、本当にオススメの場所だ。是非とも宿泊してほしい。
 このゲストハウスの『イケレ』という単語は、北海道の先住民族・アイヌの人々が使ってきた言葉『アイヌ語』から来ているものだ。
 イケレ・・・という単語は、アイヌの言葉で
『ありがとう』
の感謝の意味を示す『イヤイライケレ』の文字を取ったものである。
 この北海道の大地には、アイヌの痕跡が多くあり。そしてこの先の道北では、アイヌに関して。そして北海道の原点を多く感じられる場所である。
 幻の音威子府そばを食してしばらくした後、宿泊した宿。イケレ音威子府を後にする。本格的に、宗谷岬へ。日本の最北へ向かって歩んでいく時が迫ってきた。
 稚内方面に向かう普通列車に乗車する為、音威子府の駅に向かう。宿の主人たちに
「ありがとうございました!」
と言葉を残し、再会を誓う。
 そしてすぐ先の駅に向かい、列車を待機する。
 かつては音威子府そばもこの駅内で食せたのだが、現在は静かな道北の村の交通の要衝になっている。バスターミナルのようなカウンターもあり。そして待合のスペースが鉄道・バスと同じ環境に改札外で整備されている。
 驚いたのは、その待合コーナーの待遇だった。鉄道・バスで共通だと思うのだが、畳敷きで土足厳禁の掘り炬燵のような形状。そして電源コーナー完備としてコンセント電源が設置されているのである。
「こんな高待遇…ええんか…」
まさかの小さな村のハイテクおもてなしに、驚愕というか感嘆というか。言葉を失う笑いを覚える。
 その場所で、更に悪あがきのコンセント充電。…すると、宿内で顔を合わせた女性の老人と再会した。
「同じ列車に乗るみたいだな…?」
再会して会釈し、少しだけ会話が始まった。

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