ACT.116『九度への道』
残照を背負う
橋本から続く高野線山岳区間への訪問目的として、この学文路駅(かむろ)には是非訪問しておきたかった。
美しい木造駅舎の建築美は、建築物への造詣がそこまでない自分にも鉄道を引き立てる良い情景として。山へ駆け上って行く鉄道の上昇する道を支える1つのアクセントとして、遜色のない輝きを放っている。
学文路駅が開業したのは大正13年。
紀伊清水・九度山も同じ年に開業しており、高野線の山岳区間では古くから鉄道の要衝として今日まで支えている。
冒頭の写真はフィルターをかけたモノクロの写真なのだが、この駅舎に関しては特に美しさが輝き、駅舎としての機能をコンパクトに収めていながらもそれでいて建築の美しさも補完しているという完璧な建造物である。
駅舎に近づいて観察をじっくりすると、木の造形の細かさがよく分かる。
木造平屋建、母屋を支える柱の優美な構造は、いつまでも愛したいものである。
木の年輪や経年を一切感じさす事もなく、しっかりと観察しても「美」が押し出される事に関しては、この駅の維持管理が長年継続した証拠であり。そして南海の学文路駅に対する愛が感じられるといった安心感でもあるように思う。
昨今の木造駅舎の解体や無人駅の簡略化などで現在は建造物をしっかりと構えている無人駅こそが珍しくなってしまったご時世となってしまった…が、この駅ではまだまだ楽しめそうである。
駅の中には学文路の駅名に因んで、こうした神様もしっかりと祀られている。
学文路…という難読の駅名には
・学門の道に入る
として同時に縁起や御利益も感じるという南海の粋な計らいから、この駅周辺の『学文路天満宮』と共に1つの名物になっている。
毎年、受験シーズンを目前にして『御利益アイテム』として学文路駅の入場券を学文路天満宮で祈祷し、南海の各主要駅で販売している。
そうしたビジネスの定着と同時にして、この駅にも神様が祀られているのだ。
学文路駅を訪問した際には、その駅名称に因んで是非とも皆さん参拝していただきたい。
ひたすら語彙のない自分の言葉で、「美しい」と綴っている学文路駅の屋根構造と学門の神様。
駅に下車する受験生とその家族…以外にも、駅を利用する地元客。そして受験生を経験した駅の訪問者を見守る、駅の象徴としての存在として。
今日も暖かい眼差しが駅舎の中には降り注いでいる。
駅をゆく電車たち〜見たかった存在〜
改札の中に入って、列車を少しだけ待機する。
橋本までの複線と異なって、橋本から極楽橋までの山岳区間は単線の線路の中に行き違い設備を構えた駅が連続し、険しい急曲線が待ち受けている。
改札に入場し、ホームの上屋を撮影する。
写真は看板にもあるように都心へと向かう、なんば方面のホーム。
柱の塗装は少しだけ剥げ、木の素材らしきものが薄らと見えているがコレもまた木造駅舎の良きところであろう。
先ほども記したように、駅舎は無人なので有事の際を除いて。イベントの機会などを除いて殆ど駅員の出入りはない。
訪問した際には改札機の調整と車椅子の乗客を出迎える為に駅員が見えていたが、あとはひたすら列車の来ない間は通りすがる車の走行音と自然の音だけが駅のBGMだ。
自分の訪問した時間では、先に橋本方面に向かう列車が2本到着する。
その列車の下山を待って、次の目的地である極楽橋に向かって山を上昇していくという形である。
順番が前後してしまうのだが、この区間でどうしても見てみたかった存在の電車がいる。
それがこの2300系だ。
南海電車のイメージである青と橙から脱却し、色は銀を基調にしつつも真紅の姿という異彩を放っている。
この2300系は南海の高野線路線分断戦略。そして時代の変化に従ってのズームカーに対する新たな歩みへの回答として登場した車両である。
写真は、学文路駅を出て裏手の踏切から撮影。
自分は遭遇しなかったが、列車の行き違いなどを撮影してもこの場所は面白く映えそうである。
2300系を見る為にこの場所へ訪問した…というのは少々に仰々しいのだが、正直ずっと見てみたいと思っていた電車であった。
先程も記したように、「異彩を放つ」かの如く真っ赤に染まった銀色の車体。
そして平地の南海電車から脱却したようなこのスタイルは、どうしても関西私鉄のファン。そして南海電車というブランドを知る上で訪問しておきたかったのだ。
この2300系は平成17年に登場。
前回記事より登場している銀色に青と橙のラインを締めた2000系の兄弟車両的なポジションになるのは勿論、兄貴分である2000系の短所を脱却した車両でもあった。
それが『ワンマン運転の実現化』である。
2000系は記している令和の現代でこそ、2両単独での走行が可能となり、汐見橋線などでワンマン運用に就業しているが平成10年代ではそれが叶わなかった。
車両性能上、2000系では単独のワンマン運転が不可能だったのである。
かつては高野線の山岳区間を下山し、平成20年までは『大運転』の主力車両として河内長野より先、橋本を突破しての都心部・なんば入線も行っていたが現在は完全に山岳区間に閉鎖されたような運用を日々過ごしている。
さて。この車両を語るに欠かせぬ『赤い異彩』は何処から来ているのかというと
・高野山の根本大塔
をイメージした赤色なのである。
高野線への専従車両として風格充分な2300系…であるが、学文路駅停車後は卒なく乗客の乗り降りを実施し、橋本へ再び下山して行った。
2両編成での単独ワンマン運転を可能に。そして2000系が叶えられなかった使命を果たした車両であったが、自分が遭遇した際には多客を見込んでか2編成を併結した4両編成での運転であった。
最近の外国人観光客の増加に伴っての国内寺社仏閣景勝地の人気の向上によるものではあると思うのだが、ワンマン運転を可能にした車両の本業から掛け離れた運用は少し寂しさを感じるのでもあった。
駅への話に戻していこう。
もう1本目を何処で撮影しようかと過った時、
「列車は近いし移動しなくても」
と感じ、そのまま待機した。
やがて踏切の警報音が山中に木霊する。
橋本方面の列車が接近するようだ。
カメラを構える準備に入る。
やってきたのは2000系。
平成のズームカーとして30年以上君臨する存在であり、今やこの路線で観光客需要に応える為少しづつの運用復帰を進めている。
木造駅舎ならでは
というコトで、駅の柱の中から顔を覗かせるような記録をしてみたがどうだろうか。
順光線を折角なら活かしたいところでもあったのだが、チグハグだったこの日の空には何も言えまい。
2000系と大正時代から変わらない学文路駅の駅舎を記録。
少し高台に建設された駅である為、奥には少しだけではあるが山の頂が顔を覗かせている。
自己主張の大きなブレーキングサウンドを掻き鳴らし、2000系は一息。下山の疲労を癒していた。
少しだけ覗いた晴れ間に、2000系の特徴である銀色の車体が綺麗に映える。
学文路駅のポイントを渡って、再び単線の線路に戻って橋本へ下山する2000系。
車両の記録程度に撮影したものであるが、奥行きを感じられて非常に面白い構図になった。
全M編成ならではの独特に唸るサウンドを掻き鳴らして走り去る姿は、山岳を征く役者としての頼もしさを強く感じる。
ざんねんな役目
カーブを描いて、橋本に向かう姿を後ろへ。
17m車両しか入線できない路線、カーブの収まりも非常にコンパクトに締まるものだ。
昨今の円安による外国からの訪日需要で再びその栄光を取り戻そうとしている2000系であるが、登場して少し、大きな壁があったのも忘れてはならない。
平成17年のダイヤ改正で、大運転にメスが入ったのである。
平成17年の改正では大運転の系統分離が実施され、それまでは直通で運用されてきた極楽橋からなんばまでの分を削減し、以降は特急と僅かな分を除外して全て橋本での乗換を要する事になったのである。
以降、2000系の主力仕事である『大運転』は激減し、ダイヤ改正の度に減少を辿る。
現在は朝の1本を除いて、その殆どを特急列車に託してしまった。
しかし、大運転の減少で失職した2000系には弱点がある。
『2連単独での走行が不可能』
なのだ。
これはつまり、
・走行線区と用途の限定
を意味する。
かと言って平成9年生まれ。
まだまだ支線に送って余生…には若すぎな年齢である。
その後、大運転の系統分離によって2000系は長期の休車による戦線離脱を余儀なくされる。
そして役目が回ってきたのだった。
だが、彼らが再びあの険しい山に挑む事はなかった。
今度は山岳とは全く無縁の、南海本線での活躍であった。
南海本線に転じた彼らは、各駅に停車し特急や急行の脇を征く普通車として活躍したのである。
但し、本線では21m級の4枚扉車両が主役の為、写真の2000系は種別幕の下に『2扉車』のステッカーを掲揚している。
「ちょっと違う車両です、ごめんなさい」
という少々肩身の狭そうな…というのだろうか、再就職の場所は少し居心地が悪そうだ。
山岳の先導者
学文路駅で列車を待機していると、ようやく橋本方面から踏切が鳴動した。
列車は2〜3本やり過ごしただろうか。
30分程度の待機でやってきた。
少し前にこの駅で橋本への下山を見送った分である。
2300系による4両編成だ。
先ほど記した、平成17年のダイヤ改正を契機にして橋本から極楽橋までの各駅停車に投入された車両である。
それまでの2000系では不可能であった
・2両編成単独運転ワンマン走行
を可能とした専用設計車であり、写真のような連結しての走行は『多客期』に併せた編成なのである。
九度山に向かう為、ようやく列車に乗車したわけだが行き違いがあったので発車は少し先だった。
橋本へ下山し、更に先の都心へ向かってなんばに向かう特急、31000系の姿を収めた。
30000系とは異なる車両の個性が、乗車中の2300系にも大きく目立つ。
黒い窓枠、連続した長い長方形の窓。
平成が始まって10年、これからの次代を更に豊かな世界にしていこうという気概を込めた設計が綺麗に刺さるデザインだ。
特急の車内には外国人も数人ほど乗車しているのが確認できる。
大柄な西洋、欧米の人たちにはさぞかし17m級の車体が狭く感じられるのではないだろうか。
しばらくして、互いの安全確認を行い列車は橋本・極楽橋と双方の目的地に向けて歩みだしていった。
2300系の車内や乗り心地に関してはこの先に表記する…ので、もう少しのお楽しみにしていただきたい。
車内に広がる座席に腰掛け、ゆったりしているうちに次駅。九度山に到着したのであった。
自分の乗車した車両には数人の乗客が乗り込んでおり、列車全体で見て何人かはこの九度山で下車したように見えた。
赤備えに身を包む4両の列車が、再びの山岳区間に挑もうと扉を閉めて一息。
そして甲高い音を奏でて発車した。
九度山から極楽橋方を向いて撮影した1枚。
ここまでの乗車でも車輪とレールの擦れる音が軋み、山々を鉄道で行く険しさを身に感じたがここからは『いよいよ』本格的に山道が始まる。
2両の2300系は手を組み、九度山から先の山岳路線に足を踏み入れていった。
まずは最初の対面、としての遭遇で好感触。
以降少しづつ自分なりに姿を記録していこう。
真田の地
和歌山県の山奥、紀州は九度山というのはご存知の方も少なからず居るであろう。
戦国武将、真田昌幸と信繁(後・幸村)が大阪夏の陣まで過ごした場所として旅好きのみならず歴史に見聞がある人々にも知られている。
駅は平成28年にNHK大河ドラマで放送された『真田丸』の影響以降真田の赤備えの色となり、すっかり歴史ファンの呼び込みに呼応する格好となった。
赤備えの駅構内を、極楽橋に向けて山登りする30000系が通過していく。
橋本を発車すると途中の山岳区間には行き違い時のみだけ停車し、一切の客扱いを実施していない特急『こうや』であるが、九度山ないし学文路に停車させて観光客の更なる分散と呼び込みを図っても面白いのではないだろうかと思ったりする。
しかし、そんな思いも裏腹に列車は足を踏み締め、山への道に粛々と進んでいった。
駅には赤備えもであるが、真田の家紋である六文銭の装飾も散りばめられていた。
この駅で少しだけの休息としよう。
まだまだ山岳区間に到着して昼を過ごすのには早いが、この駅を過ぎると以降に昼食などの休憩スペースはない。
通過する30000系『こうや』を撮影した後に、食事の時間とした。