ACT.114『やり残した事』
熱いうちに
鉄は熱いうちに打て、というのは諺でも有名なものだ。
そうした諺の一環…ではないが、自分の脳内では空前絶後の南海電車ブームが到来している。
最近このアカウントでも南海電車に関する記事が多めなのが、またその証拠になっているのだが。(露骨ですね)
そんな中で、1つの乗車券の販売を観測する。
『セレッソ大阪×南海ラピート30周年記念乗車券』
だ。2,500円の販売で南海全線が乗り降り自由、という破格(かどうかは個人差ありだろう)の乗車券で、これまで一日乗車券の販売されていなかった南海に置いては強烈な乗車券の登場となったのである。
そんな乗車券の存在を知り、ある日に大阪への用事があったので天下茶屋で購入。
2,500円を払った後に台紙付きの乗車券を入手し、来る日に向けて保存しておく事にした…
(なお台紙はメ×カリで販売(をい)
さて、そうしてやってきたこの乗車券使用の時。使用する場所は、関西大手私鉄未踏の地に向けての使用とする事にした。
アクシデントを経て
自分のような京都市民の一般的な南海電鉄アクセス方法としては、
阪急電車で地下鉄堺筋線直通の電車に乗車…する事で天下茶屋まで到達し、駅を出た先が南海というアクセス環境になっている。
なので、京都市民としては『天下茶屋』こそが最寄駅になるのだが…
当日は阪急、しかも京都線が偶然にも事故。
「なんでこんな時に…」
と首を傾げて、そのまま阪急の駅からバスに乗車して祇園四条まで。
そして祇園四条から京阪特急に乗車し…
京橋から大阪環状線は新今宮経由にて移動する事にした。今はコレしか代替手段がない。
と、この時に京橋で撮影できたのがこの2200系リバイバル塗装なのである。
「おぉい、こんなん居ったら撮るしかないやろぉ!!」
と後ろ髪を引かれるようにして軽く撮影。
ちなみに。
今回撮影の時点では記念のHMが外されている。
前照灯以外は完全に当時を彷彿さす姿へと戻った訳になるのだが、ここまで違和感のない先祖返りもまぁないだろう。
旧塗装による中之島行きは、まさしく平成20年の関西私鉄が新時代へと歩み出した予感を彷彿させる、懐かしさとは異なった異彩を与えている。
発車メロディが鳴る余韻を聴きながらJRへの乗換え。大阪環状線を半周し、新今宮に向かう。
しかし天下茶屋が使えないだけでここまで不自由するのだろうか。
JRの京橋で待っている時間、発車標にはただただ『回送』・『天王寺行き』の表示だらけだったのであまりにも歯痒かった。
「山手線がツクヅク羨ましいもんだなぁ…」
こういう時だけ、少しだけ東京に憧れの念を抱く。
何本か待機して、ようやく一周する列車がやってきた。新今宮へ、いざ。
取り返すまでの道
新今宮に到着した頃には、10時頃になろうとしていた。
う〜む、これいかに。JRを下車して改札に移動するまでの間に、偶然ながら283系を記録。気づいた時には特徴的なイルカの顔は過ぎ去った後だったので、階段から反対の貫通顔を。
にしてもお前、丹後の海にそっくりな顔してんな。
度重なる振り子のアクシデントに、機器不調。そして大阪駅のウメキタ開発に於いてもしっかりと存在感を発揮する存在…として、まだまだその活躍は期待できそうである。
なお、これから乗車する車両はもっと年季が入っているのだが。
到着して、南海の改札へそのまま向かう。
関西空港の玄関的な鉄道である南海にとっての大事なターゲット、外国人観光客が多くスーツケースを提げて駅構内を移動していた。
大柄な外国人たちに紛れ移動していると、自分たちが小さく見えるからとにかく不思議だ。
さて、ここから高野山方面…
と列車を発車標から探したのだが列車がとにかくない。
河内長野・林間田園都市で系統分離されている影響はかなり大きいのか、橋本までの急行すら少ない状況だったのだが…
特急と1分差で急行が並ぶ。
かなり迷って、最終的に
「乗れるチャンスがあるなら乗っておくか」
とノリと勢いで特急こうやに乗車する事にした。
写真の車両の折り返し列車に乗車して、途中は橋本まで移動する。
「特急に乗車すればそのまま高野山まで行けるのでは?」
と思われる方も多いであろうが、今回はまず先に行きたい駅が2ヶ所ほどあったのでそちらへのアクセスを優先、なので橋本までの乗車とした。
なんばへ向かう特急こうやの車両、南海30000系。大手私鉄の特急車両の中でも、抜群に車体の短さではトップクラスである。いや、トップか。
高野線の花形種別である特急系統への専用車両であり、その誕生は昭和58年だ。
実に40歳目前といった勢いである。
それもコレも、車体の短さと共に車両の性能が重用されて今に至る経緯があるのだ。
車両の短さ…に関しては、南海の山岳車両の標準規格である17mだ。通常の南海本線の車両では20m級のところを、急曲線を走る為にこの長さとされたのである。
車両性能に関しては、
・高野山極楽橋から河内長野までの山岳区間に対応した牽引力(橋本〜河内長野は準山岳区間である)
と
・河内長野から難波までの都心部を高速で駆け抜ける事の出来る安定した速度を維持できる力
と2つの力を兼ね備えたモノになっており、昭和58年登場の30000系もしっかりと2つの力をここまで維持している。
後の乗車が楽しみだなぁ…
と思いつつ、僅かな時間で手短に車内で食す食べ物を買いに行く。
改札近くのパン屋でイチゴホイップのフルーツサンドと、本線への乗換え階段の付近に現れるセブンイレブンで少量のお菓子を購入し、再びホームへ。
戻ってくると、2000系が停車していた。
波瀾万丈の生涯を歩み、現在の南海では『Z車』として高野線のみならず本線でも活躍する万能な車両だ。
撮影した列車は、2+2+4の迫力ある8両編成。
この2000系も先ほどの30000系と同じ17m級の車体長であるが、8両も一気に繋がると壮観な姿に見える。
頼もしき山の役者
迫力ある姿を見せられたら、その姿をしっかりと写さねば…
と軽い気持ちではあるもののカメラを向け、先頭車が5つも連なる部分を撮影した。
いかにも中途半端な切り位置…に感じるかもではあるが、連結によって魅せられる力強さを残すにはこの切り位置が最も良い。
南海2000系は
・高野山極楽橋から河内長野までの山岳区間に対応した牽引力
と
・河内長野から難波までの都心部を高速で駆け抜ける事の出来る安定した速度を維持できる力
を兼ね備えて誕生した車両にして、南海でははじめてのVVVFインバータ制御車両だ。
平成2年に誕生し、南海に新たなる風を吹かせた車両にして、山岳区間に次の時代を呼び込んだ車両でもある。
新今宮を発車し、重厚なVVVFインバータのサウンドを掻き鳴らして坂を下る。
この車両の放つ重低音を効かせたVVVFインバータは、多くの鉄道ファンを虜にした美しい音色なのである。
現在は本職である山岳線区間から少しづつ撤退している動きがあるが、山岳区間での存在は今も変わらず健在であり、30年を経てもなお色褪せない。
大都市のターミナルまであと一息、というところを見送って自分の乗車する特急こうやの発車時間を待つ。
分散されて発着番線が異なるなんばを出て、新今宮・天下茶屋では目まぐるしく列車が固まる。
林間田園都市、和泉中央、三日市町…
多くの行き先が目の前から過ぎていく。
さて、もうそろそろ時間だろうか。
昭和が走る
目まぐるしく入線してきた様々な列車たちと特急こうや号が異なるのは、やはりその車体長である。
17m級の車体長は20m級の車両たちが行き交う新今宮の駅でひたすら目立ち、圧倒的な小柄さを見せている。
幾ら車両の個性とはいえ、入線してくる70mの特急列車はあまりにも目立つものを持っている。
乗車位置を確認しておかないと、それこそ目の前を過ぎ去ってしまい乗り遅れてしまいそうだ。
南海30000系の乗車位置は、奇数号者と偶数号車で乗車位置が異なっているのが特徴である。
自分は偶数号車の指定をしたので、急ぎ気味に移動して乗車した。
程なくして、発車放送が流れたのが車内で聞こえた。
狭い車内を移動し、自席を発見して着席する。
しかし本当に狭い。これが南海の究極の車両…にして、山岳地帯に挑む為に全てを捧げた『ズームカー』だ。
着席してしばらくし、無機質なチャイムと天下茶屋接近の車内放送が鳴動する。
天下茶屋を発車すると、次は堺東。いよいよ高野線の旅路が本格的に始まろうとしていた。
そんな中、着席して自席の番号を発見した瞬間に思わず
「なんじゃこの昭和満載な表記はぁ!?」
と驚きに支配され、ついつい撮影してしまった。
記念に撮影したその瞬間、この車両が『あくまでも』昭和に誕生した中途半端に置き去りにされた車両である事を少し思い出した。
登場は昭和58年。
まだまだ30代…と胸を張りたいが、既に人間の中では『アラサー』の格付となっているのである。
しかし、昭和はまだまだ終わらない。車内を見ていると、追い討ちをかけるようにまだまだ時代の置き去りが見て取れるのだ。
車両のフリースペース付近を移動している最中の事…
だが、飴色に透き通った車内の貫通扉が見える。
まさか今どきこんな車両が大阪の都心から乗客を乗せて走行しているとは。
衝撃で胸が一杯になってしまった。
先代の車両と交代したのがもう40年も前、そして特殊な条件の下で設計せねばならない神経質な車両であるとはいえ、随所に残る昭和の残照は衝撃や感動以外の何でもなかった。
先ほどから『昭和』や『アラサー』を高々と象徴するような記述を多く残しているが、この南海30000系は平成11年に更新工事を受けている。
そして、そこから真言宗の記念すべき年である『高野山開創1200年』を祝して車体全体をラッピングした際…同じタイミングで、車内の座席カバーを新しいデザインに交換した。
南海はこの記念事業に乗じて高野線特急の『見た目だけ若返り』を目指したようだが、平成の終盤に入って行われたこの措置は車両の経年劣化には勝てないようである。
貴賓の後継
本線と並走した岸里玉出までの高架橋を過ぎ、複々線から分かれると列車は浅香山付近で大和川橋梁を渡る。
この周辺は高野線の人気撮影スポットであり、人気の列車や臨時列車の走行時には大いに賑わう場所だ。
そして住宅街を縫うようにして走り、堺東に到着する。
堺東の雰囲気は、本線の堺と異なって百貨店の併設、そして駅の中には多くの商店が入居し駅前は商店街が構えられ非常に活気のある駅だ。
そんな堺東を発車し、列車は次の金剛に向かう。
関西の鉄道…いや、全国有数の荘厳な名称の駅名であるが、駅周辺はマンションや団地などが乱立するニュータウンである。
そうして街中の線路をかっ飛ばしている、30000系『こうや』号。
先ほどから何度も登場年を記しては「アラフォー手前」と連呼しているが、そんな30000系の先代車両は「気合いを投じた」伝説の車両であった。今でもその流麗さは多くの人々に語られている。
突然のアイコンで申し訳ない。
そして、堺東から先…河内長野までの車窓は全然記憶していなかったので、この話で埋める事にする。(何をやっているんだお前は)
現在の車両、30000系が登場し30年近くも『大運転』のエースとして君臨するまでは。
この画像の車両が特急『こうや』号として活躍していた。
この画像の車両は、20000系。
デラックス・ズームカーと呼ばれ、そのクラシックなデザインは一躍関西の鉄道ファンを虜にした。
車両の前面形状は美しく丸みを帯びた構造になっており、そのデザインは高野山のミステリアスな真言密教の空気を体現するに相応しいデザインをしていたのである。
この南海20000系が登場したのは昭和36年の事である。
クリーム×赤の塗装に柔らかい丸みを帯びた独特のマスクは勿論の事…この車両には大きな特徴があった。
それは、南海の車両では歴代唯一であろう
『百貨店・高島屋によって手掛けられた内装デザイン』
である。
この内装に関しては、車両の座席やカーテンに使用する素材などから基本的な床下に至るまで、当時の南海が出せる力を全て投じたとも言われている。
そして、高島屋による内装に追従するようにして車両の座席は1050ミリのシート幅に三段リクライニング式の座席…そしてフットレストの設置とかなりの力が投じられた。
また、時の鉄道界では『高級』に至る冷房設備も完備だった。
しかし、この贅を尽くした内装が弊害を呼んだのである。
贅に贅を尽くした南海20000系。
だが、そのハイスペックな車内設備に走行性能。そして内装を百貨店の高島屋が手掛けた車両はなんと予算の関係から
・1編成しか用意ができなかった
のである。
その為、後にも先にも車両は製造されず20000系はたった1編成のみで稼働することになったのだ。
なので、高野山への参詣客が増えた際や車両故障などの際には、写真のように一般車両を登用させてこの窮地を脱した。
そして、南海はこの20000系をフル回転させる為に更に苦肉の措置へと追い込む。
検査期限を高野山への参詣客が減少する冬季に設定し、20000系と運用の負担減少に繋げた。
現在、特急『こうや』は3本体制の運用を構築しているが、それまでの1本体制ではあまりにも脆すぎた。後年は運用と稼働率を重視し、以降このような車両は南海から登場しなくなった。
贅の極み…とも言えぬその装備で1編成のみの登場となり、幻の存在になってしまった南海20000系。
クラシックなその車両の形状も去ることながら…ではあるが、やはり
・1編成だけの存在
がミステリアスな空気を演出し、そして何よりも車両の人気を後押しする結果となったのであろう。
現在でも高い人気を保っている車両である。
時たまの一般車代走…という球に傷なハンデを背負いながら活躍を続けた南海20000系。
しかし、そんな20000系にも栄光の出番が回ってくる。
昭和52年の全国植樹祭開催に伴い、橋本+極楽橋で『お召列車』に抜擢されたのである。
花形車両のこれまでにない功績と言って過言ではないだろう。
しかし、そんな花形車両も老朽化には勝てない。
昭和60年。南海20000系は波動用の輸送を最後に退き、伝説の高野線特急として駆け抜けたその生涯に終止符を打ったのである。
ここまで、『荘厳な伝説の車両』である南海20000系のエピソードであった。
現在は模型メーカー、マイクロエースがNゲージで製品化した以外は殆どその記録が無い為、本当の幻に近いがデータや記録はかなりネットにあるので皆さんも機会があれば探していただきたい。
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