ACT.115『待ち受ける山』
山岳車の実力を
昭和50年代後半に誕生した短い特急列車は、登場時から変わらずこの日も山に挑んでいた。
河内長野を発車し、共同で駅を使用している近鉄長野線と分岐する。
近鉄長野線はこの駅から古市まで延びる支線で、古市までの間にはPL教団で有名な富田林にもアクセスしている。
少し車内で用を足す為に移動したが、車内をじっくりと見て観察しつつ歩いていると、先代の高野線特急・20000系程ではないものの
『特急列車に乗車して移動する非日常空間』
を上手く演出した車内だと思う。
既に40年選手への片足を投じようとしているが、この車内が演出する特別なレジャー感、密教の聖地へと移動する非日常の感覚はこの車両以降誕生しないのではないだろうか。
そうした事をつい、思ってしまう。
ところ変わって、車窓のお話へ。
河内長野から先は、かつて山岳区間だった歴史とズームカーたちの天下であった時代からの由来として
『準・山岳区間』
と称されている。
ここから先、橋本までは少々の山岳区間へ足を踏み入れていく20m級車両たちの難所となっているが、17m級のズームカーたちにとっては軽い準備の運動のようなものだろう。
自分にとっては、この河内長野から先が『未踏破区間』である。
いつも…ではないにしろ、高野線に関してはどうしても近鉄でアクセスが簡単に効いて引き返しも可能になってくる分、河内長野までで折り返してしまいがちなのだ。
河内長野を出ると、列車は軽快に山を上っていく。
車窓には綺麗な緑が青空に映え、乗車して車窓を眺めているだけでも気持ちが良い。
この日は灼熱の気温がまだ抜けない秋であったが、まだ季節は夏にいるように錯覚させる車窓であった。
河内長野から先、この『準山岳区間』には大きな歴史が存在している。
17mの車両たちにとっては足慣らしになるであろうこの区間は、和泉山脈を突破する地形の難所である。
かつては急曲線に勾配も平坦とは比較にならないほどであったのだが昭和47年に線形の改良工事に着手した。
そして、平成7年には複線化工事が完了し20m級車両の乗り入れが可能になったのである。
同時に最高速度の引き上げにも成功、輸送力の増強という形での路線発展に成功したのだ。
現在の南海高野線を語るにあたって、欠かせない基礎がここで形成されていたのである。
栄光を想う
河内長野を発車し、特急『こうや』は途中。林間田園都市に停車する。
この林間田園都市の前に美加の台という駅を通過したのだが、林間田園都市と美加の台は
『高野線複線化工事を契機に造られた』
新設駅なのである。
と、林間田園都市で南海高野線の都心輸送の主役である区間急行は引き返していく。
そんな林間田園都市より少し手前、折り返しが可能な駅である三日市町で栄光の電車を発見した。
南海6000系である。
しかも、1編成だけの『登場時の姿に復刻された』6000系だ。
令和の時代、まさかこの車両が復刻するとは大きな想定外の出来事であり、自分の南海ブームを牽引する存在でもある。
そんな銀一色の電車を見た時、自分は
「そういえば今日はホークスの優勝が決まる日では…?」
と思い返した。
奇しくも今年の福岡ソフトバンク・ホークスは昭和63年に福岡ダイエー・ホークスとして九州に移転するが、南海時代も華々しい成績を残していた。
南海時代…ホークスが大阪でプレイし、あの阪神にも劣らぬ人気を誇っていた頃。
昭和22年からの南海ホークスは杉浦・野村・門田・香川・スタンカ…と多くのスター選手が活躍し、1リーグ制の時代からリーグ優勝12回。日本一2回と大きな成果を挙げた。
親分…こと鶴岡監督は23年間に亘ってチームを牽引し、監督通算では1773勝の大記録を樹立している。
そんな栄光の時代を大阪で築いた南海ホークス。大阪での優勝は、福岡に渡っても南海時代の美しい味を知るファンにとっては非常に胸が熱くなるものであろう。
折角なので、どんな車両かという説明の為に全体の写真を。
車体が全身銀色になったのは勿論の事とし、車両番号は当時の南海のカラーであった緑色を車両番号に配している。
南海6000系に関しては、アメリカ…バッド社(現在のボンバルディア社)のライセンスを保って製造され、現在にまで至るステンレス電車の基礎を築いている。
かつてのステンレス車両製造の第一線を走っていた東急車輛がバッド社との技術契約を締結していた為、南海6000系はステンレス車両黎明期の真っ只中。
『アメリカの安全基準』
にて製造されたのである。
そんなステンレスカーの黎明期に誕生し、日本の鉄道車両製造の夜明けを経験したこの南海6000系。誕生からはもう少しで60周年を迎えるのだが殆どの車両が離脱する事なく活躍中だ。
かつて若鷹の拠点としていた難波を知り、九州へと飛び立ったかつての友が栄光を再びこの故郷で飾るという南海の晴れやかな出来事を。この6000系は登場時の姿。昭和の姿に身を包み、何を想うのだろうか。
山岳列車よ
ステンレス車両黎明期の南海6000系の横をかっ飛ばし。若鷹の来たる凱旋を思い車窓を見て時間を過ごす。
和泉山脈の中を準備運動に走行していると、簡素な4点チャイムの後に車内放送が流れた。
『みなさま。橋本。橋本に到着します。JR和歌山線は、お乗り換えください。次は、終点。極楽橋です。』
特急こうやの場合、そのまま乗車して極楽橋まで向かうのが高野山観光の定石になってくるのだろうが、自分は高野線内に目的の駅が2ヶ所ほどあったのでそれを目的にここで降車する。
現在は僅かとなった南海の底力とも言える見せ場、『大運転』を満喫するのにはここからが正念場になってくるのだが。
列車を降車する。
南海30000系は17mの車体長が短い車両になってくるので、かなりあっさりと楽に降車できた。直前まで座っているのも全然悪くないように思う。
下車し、一旦撮影。
先ほどの写真の自販機にあった『大塚製薬』の文字といい、この角形ライトから満ちる希望といい、この車両は何処か
『希望の光』
を発している存在のように思えてくる。それはこの車両の登場年に大きく関与しているのだろうか。
山岳区間の上昇と都市区間の高速運転にハードな激務を継続して40年近くが経過しようとしている。
後継の話は現状騒がれていないが、この車両を満喫できた充実感を手にして下車する。
本格的な山岳区間への休息として…のように少しこの橋本では長時間の停車をする、特急『こうや』。
この停車時間を活かせば、駅自販機での食料品などの購入は余裕かもしれない。(橋本駅のホームにはスナック菓子の自販機がある)
この橋本駅。
隣に見えているのがJR和歌山線になるのだが、和歌山線の駅としては何回かホームだけ下車の経験があり、南海に関しては
「いつか乗れたら」
程度での検討でしかなかった。
そうした思いを抱えて和歌山線に乗車し、阪和線への足踏みとしてそのままJRに乗り込んでいくのだが、その思いは数年前にも遡る。
しかし、だ。
この橋本での接続を利用してみれば
『なんば→橋本→王寺→生駒→大和西大寺→京都』
とトテツモな鉄道旅が可能になってしまう。
なんて浮かんだのだが、そんな果てしない移動、絶対にしないだろう。見て思いついたのだが、正直言ってかなりの体力と精神を疲弊しそうだ。
しばらくして、特急『こうや』は動き出した。
どうやら橋本で下車したのは自分だけのようで、まだ車内には多くの乗客が着席していた。
モーターを唸らせて、人の居ない静かな橋本駅を後にする。
ここから先は、南海でも選ばれし車両のみが立ち入る事の出来る特殊な区間になるのだ。
上昇への道
ここから先、極楽橋までの線路を担うのは17m級の車両たちだ。彼らは昭和の時代から、その名を
『ズームカー』
と呼ばれている。
航空機のズーム上昇に準えた、ないし
カメラのレンズが広角と望遠を使い分けるように汎用性に長けた性能登坂・加速の力を持っている事…から彼らはそのような名称を授かっているのだ。あくまでも関西私鉄の中・鉄道ファンの中での呼称となっているのだが。
さて、橋本の駅に下車すると角張った四角い電車が留置線に停車している。
現代の南海に於けるズームカーのエース、2000系だ。
21000系・22000系たちの後を継ぎ、同時に南海では初のVVVFインバーター制御を取り入れた平成の車両である。
もうすぐ30年と鉄道車両の中では中堅クラスに入るが、まだまだ円熟味も感じさせず色褪せぬところが嬉しい。
17m級の短い車体には、扉を2ヶ所しか設ける事が出来ない。
この影響が車両の弊害となり、朝夕の混雑時間帯に車両の行動範囲に大きく影響している。
が、この先では『彼らの活躍なくして成立せず』といった位に要の存在となってくるのだ。
少しだけズームカーを観察して、次の列車を待機しよう。
もう少しだけ時間がある。
それにしても偏ったパンタグラフ配置だ。
出勤を待つズームカーを撮影し、列車を待つ。
少し時間が経過し、入線してきたのも写真同様、同じ顔の2000系であった。
高野線の各駅停車は橋本より極楽橋までは全て2300系…という別の車両で運用されているのかと思いきや意外にも2000系が活躍していたので驚きだった。
車掌を乗務させる手間が必要な4両編成の車両…ではあるものの、昨今の外国人人気には両数が大事になるといったところであろうか。
乗車した人数は疎だったものの、車内は先ほどまでの都市区間と乗客層が打って変わりレジャーを思わせる空気になった。
乗車した際の車内の乗客たちを眺め、
「いよいよ未踏破の山岳区間が始まるか」
と少しだけ引き締まった感覚になった。
いよいよ発車時間になり、列車が動き出す。
ドアチャイムが鳴り、扉が閉まった瞬間。
未知の光景への高鳴りが少しづつ駆け上がっていくのであった。
ズーム上昇…への彷彿をさせるかのような2000系の重低音を効かせたVVVFインバーターが唸りだす。
この先から、いよいよ山岳区間が始まる。
まだまだ序ノ口ではあるものの、列車は金属の車輪が掻き鳴らす甲高い音を奏で山に挑む。
紀ノ川橋梁を橋下を出て少しした際に渡るが、ここを越えると本格的な山への道が始まろうとする。
難読の御利益
橋本から乗車し、降車した最初の駅はこの駅だ。
何でも、綴りが非常に面白く
学びの路…と記して
学文路(かむろ)と読むのである。
関西の鉄道の難読駅名の1つに数えられるが、この駅には沿線の観光地に因んだ南海電鉄独特の御利益があるのだ。
乗車した2000系の各駅停車は、そのまま乗降の動作を済ませるとドアチャイムを鳴らして扉を閉め、再びの山道に挑んでいった。
重低音を響かせた山道への足取りが静寂の駅周辺にこだまする。
学文路に下車した1つの理由として、この木造駅舎を観察しておきたかった…という目的がある。
全国的にも老朽化や木材の腐食などによって次々とガラスの駅舎に変わっていく昨今の時代。
こうした鉄道の栄華を残す木造駅舎は貴重な存在だ。
駅に降車し、改札周辺を眺めていると地元住民らしき乗客たちの会話で駅前には少しの賑わいが広がっていた。
さて、この学文路駅。
開業の年は大正13年である。
南海の山岳区間の始まり、橋本市の南部に位置している。古くから南海の山岳区間を知る重鎮のような駅だ。
駅前にはこれといった施設…が存在しているわけではないが、駅周辺には車通りのある広大な道路が続いており、駅舎の観察に集中できる良い場所となっている。
さて。そんな学文路駅が年に1回だけ盛り上がる時期がある。
それが、多くの学生たちの門出となる
・受験シーズン
だ。
この「学門の路」として成立する駅名が大きな話題を呼び、入場券が受験・試験の御守りとして人気を呼んでいるのである。
駅に近い菅原道真公を祀る神社、『学文路天満宮』の祈祷を受けての販売であり、しっかりと御利益を注入している。
販売は昭和50年に開始され、以降は様々な形で形態を変えながらも現在まで継続されている。
学文路駅の駅名標。
橋本から数えて紀伊清水・学文路までが橋本市となり、九度山から先、上古沢までは九度山町となっている。
駅名標の背後に見える木の組合せが非常にシックで美しい。
自分がこの駅の存在と美しい造形美を知ったのは中学生の頃。
NHK総合で放送していた(実際はBSが始まりのようだ)『にっぽん木造駅舎の旅』にてこの駅を知った。
以降、10年と数年の時を経ての訪問である。
映像で見た時と変わらない駅舎の美しさが、そこにはあったのだった。
木の肌を感じる駅舎の頂点…を記録。
実にこの地に聳えて90年近い変わらない姿を留める駅舎の美しさを感じながら、自分は次の列車を待機するのであった。
以降は次回へ…