見出し画像

客もニーズもない

世の中成熟した社会になるほど、そしてモノが増え、豊かになっていくほど、多くの人はモノに満たされ、強く欲しい物が無くなっていく。手を伸ばせばすぐお腹を満たすような食は、コンビニのように全国津々浦々あるし、家とスマホされあれば、寝ることも暇を持て余すこともできる。

1、世の中の「需要」不足を考える

さて、あなたはいま欲しい物があるだろうか。車!家!なんていう大きな買い物は、夢として持っていても、今現実にすぐ実現しようとできる人はそれほどいないだろう。「できれば」とか「可能ならば」という「欲しい」は夢として存在するリストに乗っているものであり、切実に今すぐ欲しいと購買行動に動き出すほどのものではない。

一方で、毎日食べる「食」。今日の夕御飯は何にしようかな。というときも、たまたまタイムラインで見た友人の投稿や、店の広告、あるいは外を歩いていたときに店先から漂ってきた香りなど、偶然の出会いによって、思い起こされたものを選択し、調理して食べる。「絶対に今日は◯◯じゃなきゃダメ!」という切迫したニーズまではなく、「まあ食べれたらいいな」や「週末でもいいかな」といったぐらいの強さで「欲しい」と思うものだろう。

こうした、ふと日常を振り返ってみると「絶対にほしい」と思うものは、それほどコレと言ったものを上げられない場合が多いのではないか。それは逆に言えば、「満たされている」ことでもあり、今を生きる人の多くは「ほどほどに」充足した生活を送れているということであろう。

かつて、モノ不足の時代には、「欠食児童」などという言葉や「栄養失調」などが社会問題化していたが、この時代に就職や安定した食に付けておらず、生活困窮に至っている人を除き、ほどほどに満たされている。(過激なダイエットや偏った食生活による別な意味での栄養失調は存在するが…)

もちろん、このコロナ禍においても、職を失い、住むところを失い、家を失いと、連鎖的に生活が崩壊することや、こうした困窮が、世帯や所得階層で固定化している点は、問題ではある。貧困対策はそれとして、きっちり取り組むべき国家課題である一方、とりあえず「生活が出来ている」人に、強い欲望を感じるようなこともない社会に、モノやサービスが売れていくための「需要」はあるのだろうか。

「なくてもいいや」という適当や失望といったことが、社会全体の活力や、生きがいを失わせているいるのであれば、それは新たな問題を、この成熟した社会が抱えていると考えてもよさそうである。

2、沸騰する消費、飽きられる消費

では、この世の中で売れているものは何か。いや、売れていると言うより、収益が継続的にあげられているものはなにか。その最たるものが「不動産」である。家は、人にとってなくてはならないもの。家賃を支払わなければ、おいだされてしまうため、すべてにおいて最優先で支払いが行われる。

一方で、コレを保有、所有する側は、安定的に収益を獲得できる。こうして、富裕層の大半が、安定的収入を不動産で得て、所得や貯蓄が富裕層に集約されていく。株式や投資なども、富裕層の所得に寄与しているが、価格が安定的に得られる点で、不動産にまさるものはないだろう。

社会は「所有する側」と「利用する側」に分断している。

所有する側は蓄積した財産をベースに、さらに財産を増やす好循環のサイクルに至る。そして、不景気やこのコロナ禍のような状況で、割安になったものを購入し、再び好景気に向けて資産をふやしていくのである。

一方、利用する側は、雇われる側でもあり、1日24時間を労働というカタチで時間を売り、給与を得る。このサイクルをずっと繰り返しながら、僅かな貯蓄や投資を通して、低所得に甘んじる状況をどうにか抜け出すチャンスを伺う。それでも、現実は厳しい。

物価は上がり、社会保障は負担増、税金もあがり、賃金を挙げる以上に生活コストが増大していく。そこで「そこそこでいい」という価値観が多くの大衆の中に広がりつつあるような気がしている。

がんばっても、給与はあがるわけではない。

時間を労働に費やしても疲労と精神的負担が増えるだけ。

ならば経済的な生活でやりくりするほうが楽だ。

出世したくない若者世代が生まれている背景にも、人口構成における高齢者層が役職に居座り、停滞し、成長の上蓋のような存在になっていることも、やる気を失わせる。加えて「今の若いものは…」という小言である。

若い人は、やる気がないんじゃない。やる気を失わされているのだ。

だから、夢は社会の現実よりも、スマホの画面の中に見出したコンパクトな枠組みのほうが、誰にも邪魔されることはない。決して、それを否定しているのではない。現実社会の煩わしいお世辞とおせっかいに気を使うぐらいなら、干渉されない自由を選んで当然だろう。

限られた所得。広がらない行動範囲。世代の価値観の断絶。そんな社会で、経済は回るわけがない。

同世代や同じ価値観の中で、共有するものが、水平的に人気を経て、まるで水が沸騰するように一気に人気を経て、そして、広がりとともに熱は冷め、一気に飽きられていく。そんな平面的な消費社会に今、直面している。

だから、長期的な考えや計画なんて、役に立たない。「売れ続ける」なんてことを考える前に、今、目の前で「売れる」ことを考えなければ、モノはお金と交換できないのだ。

3,禁断の「心の消費」

では、モノが売れないとされるこれからに、一体何が売れるというのか。特段欲しい物もない。あっても別に買わなくてもいい。ないならないなりにいきていく。モノだけが売り物の社会では、モノがますます動かなくなっていく。

それでも人は「ひとり」ではいきていけない。SNSのプラットフォームはかつてのミクシイやフェイスブック、LINEやTikTokなど変遷していけど、人が求めるコミュニケーションの「総量」は変わっていないだろう。

存在が、リアルからアイコンやアバターになっていくといわれる社会で、IDという固有性に、いくらでもどんな姿にでも変身できるデジタル社会の中の自分というバーチャルな存在。リアルから眺めれば自分を投影するような感覚で、その借り物の存在で人生の接点を求めていく。

お腹の減らないそのバーチャルな自分が求めるものと言えば、コミュニケーションを通して得られる感情、欲望、そして存在である。いわゆる「こころの代償」がこれからの消費の中心になっていくだろう。

それは、リアルの世界でも「モノ」ではなく、そのモノに「ココロや欲望を満たす」存在を纏わせることになる。それは、「購買」が目的ではなく、購買を通して「つながり」を買っているようなもの。それは宗教そのものであり、信じる・信じないで購入先をワケていくことになる。

コミュニティを通してサロンとしての課金や、産直ECでの「つながり」などはまさにこれにあたる。満たされない心や承認欲求、存在意義を「購買」で証明していくのである。

4,仲介機能の対価の意味

純粋にものを買うだけの顧客が減っていくその先に、商売は成立つのか。社会はどうなってしまうのか。満たされない心を満たされるまで買い続ける「モンスターなファン」を生み出す一方で、何かちょっとしたズレや違和感があれば、スイッチしていく移ろいやすい顧客まで、不安定な顧客対応が課題にいなっていくだろう。

売り手は「メンタルヘルス」のために売っているのではない。

「感謝の言葉を言われないから買わない」という消費者も変だ。

きっと、こうした安定しないメンタルと対峙するコストや負担が、商売に置いてはあらゆる業種で課題となるだろう。高齢者が買い物で、店員と一言二言が長話になるように、そうした満たされない心を「お客様は神様」という印籠を持ってやってくる消費者に、どう向き合うか。売り手にとっては大きな課題。CSにとっては無理難題。

メーカーやポータルのCS部門は、こうした「顧客選別」の機能としての役割を担わざるを得ないし、ECに出店する側は、その対価を支払う価値は十分にある。つまり、単なる「マッチングの手数料」として仲介者に対価を支払う価値はもうないのだ。

顧客は勝手に見つけてやってくる。それを仕分けし、選別し、ときに断り、作ること、売ることに集中できるような支援の対価が、「手数料」の意味となす。

あなたは「モノ」を売る生産者になるのか。

それとも「心の対価」としてモノを売る生産者になるのか。

商売のスタイルはどちらでもいい。ただ、購買が日々「宗教化」していると感じるのである。


いいなと思ったら応援しよう!

alltogethergoheven
日本と世界を飛び回った各地域の経験と、小論文全国1位の言語化力を活かし、デジタル社会への一歩を踏み出す人を応援します!