脱・「断捨離」
「断捨離」「終活」「シンプルライフ」。
「物を捨てなきゃ」という強迫観念に駆られて、捨てたいと思うけど捨てられないという状態にある人は意外と多い。
「どうして自分ってこうダメなんだろう」みたいなことを想う人もいる。
必要ないモノはどんどん捨てて、すっきりした暮らしをしようという風潮がブームになって随分と経つ。
しかしながら、“捨てないことも悪くない”という考え方もある。
ことし90歳を迎える、作家の五木寛之さんの「捨てない生きかた」が発刊されて、その内容について著者がNHKの特集に答えていた。
五木さんは、1968年のパリの5月革命の時に、フランスで買った靴をまだ保持しているという。カルチェラタンと呼ばれる大学が多く集まる地区でものすごい騒動があった時、パリ中がひっくり返るような。その中で一軒だけ営業している靴屋で購入したものだ。
その靴屋さんに入ってみると、一足の小型のブーツがあって、そこに日本のメーカーの名前の入ったジッパーがついている。こんな騒ぎの中で開いている靴屋さんがあって、それで日本の製品とぶつかるのは、これはご縁だと思ってそこで、思わず買ってしまったものなのだ。
それを50年か60年か、一度も履くことなくほったらかしにして置いたままだったが、その靴を今ふと手に取ると、「1968年の歴史的な当時のパリ全体が、燃え上がるような、そういう時期のことがぱーっと浮かび上がってくる」と言う。
「あのときはこうだったな、ああだったなっていうことが。そういう風にモノにはひとつひとつ『物語』があるんです」。
「ちっちゃな喫茶店のマッチであろうと、バーのカウンターにあったコースターであろうと、思い出のよすがになるじゃないですか。僕はすごく大事だと思うんですよ」。
戦時中に子ども時代を過ごした五木さんは、捨てることがなんかもったいないという気があるのか、なかなか「捨てる」ことができないと言う。
そういえばわたしの母も、幼い頃に戦争の時代を経験したからか、モノを捨てることがひどく不得手な人だった。こんなガラクタをいつまでも取って置いて、と言うわたしと喧嘩になったこともある。
今から思えば可哀想なことを言って申し訳なさに胸が軋む。
散らかりには臨界点がある
五木さんの仕事部屋は体を横にして動かなければならないほどの混みようで、雑多のものが多いと言うことだけれど、面白いことに散らかり方っていうのは臨界点があって、「それ以上、モノは増えないし、なぜかそれ以上混乱しないんだよね」と言うことらしい。
「捨ててもいないし、新しいモノも入れていないんだけど。そんな風に何十年もやってきました。今着ているジャケットも、42年ぐらい前のもの」
五木さんはさらにこう付け加える。「人はね、何か昔のことを回想するってのは決して後ろ向きのことじゃないんです」。
「個人では回想だけども、例えば国のことを回想するのは歴史っていうわけですよね。ですからいろんなことを考えながら、その思い出を、糸口を探すためには、何かのきっかけが必要なんです。それをね、“依代(よりしろ)”って古い言葉で言うんですよね。だから豊かな回想の世界に浸っていくためには、まず入り口のドアを開けるが必要なんです。その鍵になるのが、小さな、忘れられた古いモノたちなんですよ」。
年を重ねていくっていうことが、寂しいことではないのかもしれない。それは本当にいろんな昔のことを自分で思い出し、その依代を手に取っては「あのときはこうだった、このときはこうだった」って思えることだ。
歳を重ねていくってことは、そういう追想とか記憶とかの海の中に泳ぎだしていくことなのかもしれない。
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