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成功した芸術作品の「登場人物(ワニ含)」は作者のコントロールを超える:バフチン予想の通り

20世紀ロシアの大文学者バフチンが『作者と主人公』という主著で提言していたように、登場人物が作者のコントロール不能となり、社会の中に独り歩きして出ていってしまうことは物語芸術としてはむしろ望ましいことでしょう。

ドストエフスキーにとってのムイシュキンやラスコリーニコフ然り。ゲーテにとってのファウスト然り。

最近の事例でいえば、某ワニ君が作者のコントロールをはなれて読者の心の中に居つき、ワニ君を生んだ当の作者に対してすら、『それはワニ君のためにならないことだ!』という批判が読者から上がってくる(!)という珍現象然り。

「せっかく良い最終回だったのだから、このまま静かに死なせてやってほしい」という、死んだ子供の保護者のような感情が読者の中に渦まいている。虚構キャラクター相手にそんなにマジになるのはバカバカしい?いえいえ、これが物語芸術の持つ凄い力なのだ!と思います

そしてそれは、けっきょくあの漫画が「芸術作品としてとてもよくできていた」ということの証左でもあります。ただし作者にとっては、辛いこともこれから起こるかもしれませんね。

コナン・ドイルが、「シャーロック・ホームズを死んだことにして、別の作品に着手したい」と、何度も「ホームズ最終回」を書こうとしても、読者の猛抗議で死ぬまで続編を書かされたという前例がありますが、

自分が作ったはずの空想上の人物を、読者がどうしても死なせてくれない!」というコナン・ドイルの苦悩とは逆に、

自分が作ったはずの空想上の人物を、なぜか読者が安楽死させようとしてくる」という不思議な構図になるかもしれない。

よい作品を生み出した作者というのは、もしかしたら辛いものなのかもしれません。「生み出した子に対する責任」みたいなものが要求される。

しかも今回のケースは、当のキャラクターが既に虚構世界中の時間軸では「死んでいる」という二重のややこしさがあり、ますます「作者VS読者VS登場人物の利害対立」という古くからの哲学的なテーマにとって興味深い(関係者にはしんどい)構図になっていると思います。しかし繰り返しますが、論争のタネになってしまったのは、けっきょく今回の漫画がアートとしてよくできていたという証拠と思います。

それにしても、一人のアート好きとして、芸術哲学的にもこんなに興味深い事例にリアルタイムで出会えるとは、思いもしませんでした


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