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【映画に描かれた論理パズル!?】「僕は正直モノだ」「僕こそ正直モノだ」な二匹組のモンスターとの対話から論理を守る難しさを考える

皆さんこんにちは。

SF趣味や夢文学好きからスタートして、いつしか論理学にどっぷりハマり、今年も某通信制大学で論理学系の単位を狙っているヤシロと言います。

夢っぽいシチュエーションでの論理パズルといえば、皆さんは『ラビリンス-魔王の迷宮』というファンタジー映画をご存知ですか?

かのジム・ヘンソンがモンスター達を担当し、デビッド・ボウイが音楽を担当し、ジェニファー・コネリーがヒロイン役という、1980年代ファンタジー好きにはもはや夢のような傑作なのですが、

実はこの映画、おそらくはルイス・キャロルの世界観を意識しているのでしょう、

錯覚やパラドクスや論理パズルネタも随所に仕込まれていて、その手の知的遊戯好きな映画ファンをニヤリとさせてくれる仕掛けに満ちています。

そしてこの映画に出てくるパズルの中でも特に有名なのが、「正直モノとウソツキのパズル」。

映画では、二体のドアのモンスターが出てきて、

「僕らのコンビは、どんな質問にも『はい』
『いいえ』で答えます。ただし、片方は必ず真の回答を答えるが、もう片方は必ず真ではない回答をします。さて僕らにひとつだけ質問をして、正しいほうのドアを開けてね?できるかなー?」とイヤがらせをしてきましたね。

これはとても有名なパズルですが、知らない人も、アタマの中でシミュレーションしてみてください。単純なようでいて、かなり厄介なパズルです。というのも、

「あなたは正直モノですか?」と質問したところで、

正直モノはもちろん「はい」と答えますが、

ウソツキも「はい」と答えてくるに決まってるのです。

そういうわけで、「はい/いいえ」で答えさせる質問を一回だけで、どちらが正直モノでどちらがウソツキかを見破るのかは至難のワザ、、、と思いきや、

実はこのパズル、別に「正直モノ」と「ウソツキ」を見分ける必要はありません(※見分ける方法もあるけど、パズル回答としては少し複雑になるので、そちらの解法はまた別の機会に!)

「正直モノでもウソツキでも、本当のことを答えさせてしまう」めちゃくちゃ簡単な方法があるのです。

答えを言っちゃってもいいですか?それとも、皆さんも、少し考えてみますか?

じゃあ、5からカウントダウンしたところで、答えを言いますね。

それでは、

5

4

3

2

1

、、、では、答えを言いますね。

それは、どちらでもよいので、片方を選んで、
「あなたは、私がもし『このドアが正しいドアですか?』と質問したら、『はい』と答えますか?」
と質問するのです。

この形式で質問をすると、正直モノであろうとウソツキであろうと、

正しいドアなら「はい」
間違ってるドアなら「いいえ」
と、正確な情報を回答してくれます!

実は、さっきの質問
「あなたは、私がもし『このドアが正しいドアですか?』と質問したら、『はい』と答えますか?」
には、

ひとつの問いの中に、「このドアは正しいか」と、「この質問にあなたは正しく答えるか」の二つの問いが仕組まれているわけです

正直モノはそのまま回答をしてくれるだけですが、

ウソツキは、、、おそらく数秒固まって凄く考えてから、しぶしぶ、正しい回答をしてきます。「ウソのウソ」で答えないといけないから、一周回って、正しい答えを言わなくちゃいけないのですね。

※いまひとつピンとこない方も大丈夫です、これは単純そうで、意外に奥深いハナシです。こういうときは紙に書くのがよいと思いますので、ぜひ、自分が正直モノさんになった場合、および、ウソツキさんになった場合、それぞれで、この質問には何と答え「ざるを得ないか」を、ノートに書き出してみてください。

「あ!なるほど!」と腑に落ちます。面白いですねえ、、、!

しかし、私が今日言いたいことは、むしろここからです。

私とて、こういう論理パズルを知った時には、

「なあるほど!論理って奥が深いなあ!」と納得するくせに、

何を隠そう、

そんな私も日常会話では、こんなに厳密に「論理的な受け答え」をしてはいないのですw。ていうか、知らぬ間に、「厳密な論理学の世界では間違いな語用法」を侵しまくっているハズw

ここに論理というものの厄介さがあると思います。

数学の問題を解いている時や、コンピュータプログラムを書いている時などは、人間は存外、論理学など知らなくても、論理の間違いはあまり起こさない。

ところが!

人間と人間との日常の会話になると論理学者ですらみごとに厳密な語の使用から外れていく、、、

じゃあなんで論理学をやるのかというと、誰かと論争や議論をしていて、どうにも平行線でまとまらない時に、「まてよ?もしかして、どこかでお互いに論理的な飛躍や、推論の誤りが混じってないですかね?どうでしょう、ここは冷静に、互いの主張を紙に書き出して、論理的に問題がないか整理してから、もう一度、議論を組み立て直してみませんか?」と振り返りを提案できる、そんな度量を身につけること、といいますか、『人間がやっちまいやすい論理的な罠に気づきやすくなるから、人間は常に話をしている中で間違いを犯しているものだと、謙虚になるから』というのが、とりあえずの私の考えですが、

それにしても、、、

それにしても、ですよ?

私が余計なことを考えてしまうのは、この記事のパズルに出てきた「正直モノとウソツキの、ドアモンスター」ですが、、、先のパズルが成立するためには、このモンスターはコンピュータのように論理に厳密な回答を正確に出してくる高い知的能力が必要ということになりまして、、、

もしこのモンスターが「論理に弱い」モンスターだと、せっかくの正しい質問、

「あなたは、私がもし『このドアが正しいドアですか?』と質問したら、『はい』と答えますか?」

をぶつけても、

「え?なに?その質問、複雑だよ?どういうこと?」とパニックになられたら、この論理パズルのシチュエーションはみごとに崩壊するというw

映画『ラビリンス』のこのシーンも、似たようなオチでしたね。せっかくジェニファー・コネリーが学校で習った方法で突破を計ったのに、「え?いまのこのお嬢さんの質問、どーいうこと?」とモンスター側が混乱してしまい、互いに相談を始めてしまうというw

まあ、「論理的に語ろうぜ」と言ってきた方が、どうも論理を守ってくれない(しかし、本人は「オレは論理的に話してるんだー!」と言い張ってくる)というシチュエーションは、人間社会ではよく見かけることですしw、そんなことを言っている私も知らぬところでうっかりひどい論理的ミスで議論や論争を台無しにしている可能性はたくさんあるのだw

実に論理とは厄介なものですが、ただただ、その厄介さを、この手の論理パズルで普段から痛感し、

謙虚になるのがいちばん、、、と、私などは思うのですが、いかがでしょうか?!

※と、いうカタいハナシは、それはそれとしても、『ラビリンス魔王の迷宮』はぜひもっと認知されてほしい傑作ファンタジー映画です!特撮の凄さや物語の面白さもさることながら、まだ新人時代のジェニファー・コネリーの美しさが、もはや神がかりなんです、、、


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