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詩人の姉妹がウェイリー源氏に挑む/藤井貞和(「図書新聞」2019年10月19日 第3419号より)

 姉妹訳というところに、『源氏物語』にとってのある種の運命を感じる。訳者の詩人、森山恵さんと、私は旧知というか、以前に詩集『夢の手ざわり』(二〇〇五、ふらんす堂)をいただいて、はるかな歳月ののち、横浜での鮎川信夫展に遙々出かけたところ、偶然か、森山さんも観に来ていて、ご一緒に回ったあとの立ち話で、意を決したかのように、「いま、ウェイリーの『源氏物語』に取り組もうとしている」との告白だった。『源氏物語』と作家と、『源氏物語』と研究者との組み合わせは世に多くあるものの、詩の書き手との組み合わせは斬新で、俳句作家の姉、毬矢まりえとともに取り組んでいるのだと言う。
 アーサー・ウェイリー訳『源氏物語』は、これまでに一度、全訳版が平凡社ライブラリー版で試みられており(佐復秀樹氏)、このたびの毬矢・森山訳は、日本語で二度目の挑戦ということになる。ややそのことでは危惧したものの、かずかずの困難をはね除けるかのように、瞠目させられる訳業を成し遂げて、ついに完結する。物語和歌関係では協力させていただき、私としても望外の喜びというほかない。
 第二巻の帯に、この姉妹訳について、瀬戸内寂聴さんが「徹夜で読了しました」とある。読了とはゆかないにしろ、私もまったくの同感で、ページを繰り続けて止まらなくなる。なぜだろう。むろん、その魅力の源泉は第一に、ウェイリーの英訳そのものにあるはずだ。それ以上に姉妹のぴたりとウェイリーに寄り添う作業の魅力が滲み出る。
 『源氏物語』のなかには幾組かの姉妹がモチーフを担う。「紅梅」巻ではオオイギミとナカノキミと、「竹河」巻ではヒメギミ、ワカギミと呼ばれ、宇治十帖の女主人公たち、姉妹である、八宮の姫君二人(大君、中君)はウェイリーによってアゲマキ、コゼリと名づけられる。コゼリの歌は、
 「雪深い池のほとりに芽吹いたヤング・パセリ(コゼリ)を、いまは誰(た)がために摘むのでしょう」
  雪深き汀(みぎは)の小芹、たがために摘みか はやさん。親なしにして
と亡き親を慕う。「ヤング・パセリ(コゼリ)」と書かれるように、あるいはアゲマキとあるように、毬矢・森山姉妹のこのたびの訳業は、ウェイリーの英訳に対し表記のカタカナをこまやかに駆使するなどして、宮廷社会や古代文化がさながら「再現」される。
 けっして誤解したくないこととしては、イングランド社会へ『源氏物語』を持ってきた、移植した、というような翻訳ではない。ウェイリーは何万キロもかなたの、そして一千年を隔てる東アジア十世紀古代文化へ向けて、つまり日本平安時代に分けいったのである。本人の日記にこうあるという。
  〈『源氏』の翻訳を始めたその時から、私は作者紫式部がすぐそばにいるような気がした。そして絶えず頭の中で紫式部と対話していた。「わたしの言いたい要点の半分があなたの訳では失われました」と彼女が私を叱る、「もしそれ以上できないのなら、すべて諦めるべきでしょう」。〉
叱りながら、ウェイリーを励ましてくれるのは、「夢の中の紫式部だけだった」と、訳者のひとり、毬矢が綴る(第一巻あとがき)。作者と翻訳とが一体化するとはそういうことだろう。それは毬矢と森山とがウェイリーの『源氏物語』に向き合う在り方にそっくりそのまま通じる。〈次第に、私たちは紫式部とウェイリー二人の「ヴォイス」に耳を傾けるようになりました。はじめは微かだった彼らの声も、物語を深く読み進むにつれ、澄んだ明晰な声となって聞こえるようになりました〉(第四巻あとがき)。
 ヴァージニア・ウルフの本書評「この美しい世界 レディ・ムラサキの完璧さ」(一九二五)をそのあとがきに並んで読むことができる。〈レディ・ムラサキが女性なのですから、プリンス・ゲンジの心の多面性を照らし出すのに、女性たちの心を媒介(ミディウム)として選びました。アオイ、アサガオ、フジツボ、ムラサキ、ユウガオ、スエツムハナ。美しいひと、赤い鼻のひと、冷たいひと、情熱的なひと――彼女たちは明晰な、あるいは狂ったような光を、中心にいるこの明らかな青年に次々に投げかけるのです〉。〈この物静かなレディは、良い生い立ち、洞察力、陽気さを兼ね備えた完璧な芸術家でした〉。
 この、完璧な作者と一つになろうとすること、作者の声に耳を傾ける翻訳とは、そういうことでなくては適わない。ところが、そのような翻訳理論は、実を言うと少し古い考え方として、現代に否定されてきたところなのではないか。どうだろうか、ある著名な現代の翻訳家は言う、「私は紫式部を知らない」と。言語間翻訳としてはまさに機械のように翻訳可能な現代にあって、そこへ文学としての情感や環境を加味する、研究らしい翻訳に腐心させられるというのが現在の水準だろう。
 言語内翻訳(いわゆる現代語訳)に至っては、現代語のネイティヴによる取り組みである以上、まず物語内容を鷲づかみに取り出すと、現代語の書き物に置き換える(作家のそれならば現代に生きる作品としてもたらす、研究者ならば研究成果としてもたらす)作業だから、いわゆる時制をはじめとして、文法、丁寧さ、敬語(身分関係)その他、古文らしさが多く消されてしまう。世に苦心の現代語訳(やアダプテーション)は多いにしても、正確な言語内翻訳かというと、それの不可能性の別名にほかならない。
 となると、事態はすでに明らかだろう。諸言語を越える翻訳(ここでは日本古典語から英語へ)ということが、それ自体でも正確さは必要だし、語学の天才とされるウェイリーの、作者の声とともにもたらした『源氏物語』がさらにどんなに正確無比か、現代日本語を介さない直接性の賜物というに尽きる。疑う向きには毬矢・森山訳をひらき、面倒がらずに源氏原文を置いて見比べてみよう。このことはウェイリーの戻し訳としての姉妹訳の優秀さをそのまま証し立てる。英訳からの戻し訳によって、日本語から日本語への現代語訳ではできなかった不可能性がうまく克服されて眼前にある。みごとな仕掛けというほかはない。
 『源氏物語』の研究は十年おきに山場が来ると考えると、二〇〇八年の『源氏物語』千年紀以来で、いまこれから大きく変わってゆくことだろう。このウェイリー源氏の翻訳刊行はその劃期を示しているし、私の関与するところでは岩波文庫の新しい『源氏物語』(全九冊)が七冊目にさしかかって、本文も施注も面目一新させつつある。
そこには間に合わなかったが、国(くに)冬本(ふゆぼん)という本文の研究が進みつつあり(越野優子『国冬本源氏物語論』〈武蔵野書院〉の刊行を見る)、一例で言うと、光源氏が「少女(おとめ)」巻で建てるはずの六条院という御殿が国冬本には見られない。数百字にわたり、現行『源氏物語』にはない本文を擁する「鈴虫」巻をはじめ、異文の複雑なオンパレード。これまでの研究者ならば「後人の改竄だ」とか称して片づけてきた問題だが、今後はそうゆくまい。ちなみにウェイリーの『源氏』は「鈴虫」巻を欠いており、謎というべきだろう。
どうやら『源氏物語』は正編がだいたい一旦書かれたあと、すっかり書き替えるといった、大長編ならではの改稿を試みているようで、まあ執筆に三十五年という歳月をかけた物語である以上、むしろ大胆な改稿を考えてみることが自然だろう。宇治十帖は十年を費やして書かれ、ついにできあがった新刊を、『更級日記』の書き手が少女時代に五十四巻揃いで手に入れて有頂天になったことなど、よく知られる通りだ。

(ふじい・さだかず 詩人・日本文学研究)


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