(劇評)吐かれる息が安堵となるように
演芸列車「東西本線」『窒息』の劇評です。
2024年6月30日(日)15:00 金沢21世紀美術館シアター21
演芸列車「東西本線」による公演『窒息』(作・演出:西本浩明)は、現実に起きた「京都伏見介護殺人事件」を題材にしたフィクションの作品である。2006年2月、当時54歳の男が生活苦から、86歳の認知症患者の母親の首を絞めて殺害した。母を殺害後、男も包丁で自殺を図ったが未遂となった。男は承諾殺人罪などに問われるが、同年7月に懲役2年6カ月、執行猶予3年の判決が下る。その後、彼は一人暮らしをしていたが、2014年8月に自殺したと見られる。
『窒息』では判決後の、男が一人暮らししている時期を描いている。当日パンフレットに西本が寄せた「演出ノート」によると、自分になら何が書けるのかと考え「この人物はどう生きていくのだろう」という結論に至ったとのことだ。西本はまた「この話に何らかの救いがあってほしかった」とも書いている。よって、この物語では事件に至る動機や、事件そのものが詳細に表現されているわけではない。直接的に残酷な描写はない。だが、この芝居には、母を殺さねばならなくなってしまう男の苦悩や、そうなってしまうことへの怒りが、かすかな気体が底を漂い足にまとわりつくかのように、流れ続けているのだ。最後の瞬間まで。
会場に入ると、舞台は黒い板張りの床のままで、中央に黒いパイプ椅子が二つ、向かい合わせで置いてあった。後方に白い長方形の大きな板が5枚、間隔を空けて立てられている。板の後ろにも人が通れるくらいの余裕があるようだ。この会では開演前にビフォアトークということで、石川県介護福祉士会前会長の中野朋和と、介護福祉士でもある、東西本線主宰の東川清文による対話の時間があった。物忘れと認知症の違い、認知症が疑われた時にどう対応すればよいか、などが話された。
ビフォアトークが終わり、しばらくの後、東川によって前説が始まった。基本的な注意事項を述べたのち、東川は自分が「観測者」だと話し出す。そして観客である私たちも同じ観測者なのだと。東川はパイプ椅子を客席の前に置いて、そこに座る。彼が電灯の紐を引く仕草をすると、照明が明るくなる。舞台の床には何も置かれていない。
木工所の休憩時間、方喰ケンジ(西本浩明)はふいに猫の声を聞く。不思議に思って猫を探しているところを、同僚の柘植(LAVIT)に見られてしまう。柘植はケンジから詳細を聞いて「シュレディンガーの猫」の話をする。50パーセントの確立で毒ガスが出る箱の中に猫が入っている。猫は生きているか、死んでいるか。それは観測するまでわからないという、量子力学の話だ。
5枚の白い壁にはシンプルだが必要十分な映像が映し出され、そこが今、どこであるのかを示す。壁の後ろで誰かが動いている。ケンジの母、トシコであるだろう女性(所村佳子)や、白塗りの男(松本拓也)。彼らはケンジの思いに呼応するように動き、立ち止まり、やがて通り過ぎていく。そしてまた、気付くと彼らは背後を歩いていたり、こちらを見ていたりするのだ。
ケンジが部屋を出ると、隣の部屋から鳳(玉井琴望)が出てくる。引っ越してきたばかりの彼女にゴミ捨て場を案内するケンジ。立ち話をしていると、彼女の部屋から壁を殴る音が聞こえる。彼女は体に麻痺がある父親と二人暮らしであることがわかる。
ケンジたちの勤める木工所は経営が厳しいらしく、ケンジは所長の六人部(山田勝文)から残業を要求される。だがその残業代や、かねてから頼んでいる昇給についてはいい返事がない。それでもなんとかケンジは仕事を続ける。
ある日、ケンジは鳳に誘われて動物園に来ていた。チンパンジーなどの生態に詳しい鳳は動物が好きで、飼育員になりたかったという。しかし、彼女は介護のために夢を諦めた。一人では何もできない父を放って動物園に来たという鳳の、介護に疲れ果てた姿に、方喰はかつて自分の体験した介護の苦しみを思い出す。その時、チンパンジーがガラスに排泄物を投げつけた。嫌がるとわかってやっているのだと、鳳は説明する。それが嫌なものであることすら、わからなくなってしまった母のことを、ケンジは思い出す。
ケンジは仕事を休む。そこに心配した柘植が訪れる。柘植が今度は「パラレルワールド」の話をする。今、自分がいる世界とは、別の世界が存在しているという仮定だ。なぜそんな話に詳しいかというと、ケンジは物理の研究者を目指していたのだ。決めたところからまた別の世界が生まれているのだという。方喰さんが決めたことならそれでいいんです、というような言葉を残し、柘植は去る。
いよいよ木工所の経営が立ちゆかなくなり、ケンジは所長から退職を依頼される。先に辞めたらしい柘植について所長に尋ねると、彼は自殺したことが判明する。諦めずに持ち続けていた物理学者への夢が断たれてしまったらしい。
過去と今が、誰かの思いと別の誰かの思いが交差する。俳優の演技、動き、照明や音響、舞台装置や映像、舞台上の全てを緻密に配置した複雑な構成によって、ケンジたちの生きる世界が表現されていた。しかし観る者を混乱させはしない。ケンジの視点で物語が進んでいることが明らかである。そこにケンジと似た苦悩を持つ鳳と柘植のエピソードを重ねていくことで、あまり自分からは多くを語らないケンジの心情を推し量ることができる。鳳は介護の苦しみを、柘植は労働と貧困の苦しみ、そして思うとおりに歩みを進められない者の悔しさを体現する。二人と似たつらさを抱え、それゆえに罪を犯してしまったケンジの、絶望とも呼べる心の風景が立ち上がる。
そのケンジの心象風景を表現するもう一人の存在が、白塗りの男だ。松本の舞踏によって、得体の知れない何事かへの不安感が煽られる。男はケンジに近づき、じわりと彼を侵食するように動く。彼はケンジの何であるのだろうか。
ケンジは思い出す。母と過ごした最後の日を。母を殺め、自分も死のうと試みた日のことを。だけど、死にきれずに生きてしまった。罪を抱えて生きていかなければならない。
客席には、息をすることすらできないような空気があった。物音一つ立たない静かなシアターの中で、ただ、じっと、彼らの行く先を見ていることしかできない。東川が最初に言ったように、私たちは観測者でしかないのだ。しかし、観測者であるからこそ、私たちは彼らを見て考えることができる。なぜ、ケンジは母を殺めるに至ったか。どうしてそこまで追い詰められねばならなかったのか。底無しの沼に落ちてしまう前に、誰かがその腕を掴むことはできなかったのか。この物語に、ケンジや、鳳や、柘植に、少しでも感情を揺さぶられたのならば、私たちにとって彼らに似た誰かの苦しみは、他人事ではない。そもそも、いずれ私たちも皆、歳を取るのだから、最初から自分事なのだ。悲しみを増やさないために、私たちはどうあればいいのか。そして何をすればいいのか、何ができるのかを考えたい。
うずくまる白塗りの男に、トシコがそっと寄り添う。ゆっくりと立ち上がった二人は、光の射す方へと歩いていく。男はケンジの闇であったのかもしれないが、その闇を包み込み無化するかのような、圧倒的な光だった。それは許しであるように思えた。