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COLD BREW 36

 既に、秒針は止まっていた。
 それを確認して凍りついた。
 無理もない。大晦日から元旦にかけては半死半生で、元旦を明けても半病人だった。自動巻きの螺子ネジがそこまでもつわけがない。
 時間を見ると元旦の深夜、2時23分を差していた。
 ああ。その頃は史華の腕のなかにいた。
 もう約束を破っている自分に腹が立つ。
 再びその針を動かすのか、と自答する。
 長短針を自ら合わせた祐華は既に亡い。
 喉ぼとけを鳴らして悔恨を呑み下した。

 仕事始めは新年四日としていた。
 が、もう三日には掃除に入った。
 身体を動かした方がいい、脳に重荷を背負わないことだと考えた。
 洗浄を終えた水出し珈琲のドリッパーをセットして、明日からの営業に向けての抽出を開始した。その芳醇な香りを脳裏に押し込みながら、無心にグラスでも磨こうと考えていた。
 扉の呼び鈴が鳴った。
 店頭に店休日のサインは出してある。
 史華だろうか、だとしたら恰好がつかない。バックヤードから半身だけ扉に向けた。
「明けましておめでとうございます」
 澄んだ声が、物憂い空間を初春色に染めた。
 茅野七瀬が喪服のような黒いコートに包まれたまま、襟を正して玄関に立っていた。
「明けましておめでとう。すみません、お年賀を頂きましたが、僕の心中では喪中なので新年のご挨拶はご遠慮しました」
 その言は嘘だ、馴染み客には開店日を明記した賀状を送付している。
 僕の掌はすっと宙を流れて、迎え入れる仕草をとっていた。
 彼女の靴が踏み入れて、外の冷気が雪崩込んできた。
 ・・どうだか、と呟きながら、やはり定位置のスツールにとまった。
 彼女はこの純喫茶の草創期を支えていた。前オーナーの死去の際にも年賀状は欠かさず送ったことを知っている。
「まだ開業前なのよね」
「水出しは無理です。ハンドドリップでよければ」
「じゃあお願いね」
「営業時間外なので、奢りですよ」
 何の変哲もない言葉の応酬を重ねて、ドリップの準備を始めてやっと視線から逃れられた。
「貴方・・何か憑き物が落ちたみたい。いいお年賀だったみたいね」
「生憎と、お雑煮と初詣だけですよ、体調を崩してしまって」
「ははあ、お雑煮を作って貰ったの。いい休養だったわけね」
 ぴくりとドリップポットを持つ右腕が動いた。
「貴方が元旦に、鰹節で出汁を取る姿を想像できないわ。その手袋の贈り主かしら?」
 右ひじをカウンターについて、耳元の髪を触っている。席を立ってコートを背後のフックにかけてまた定位置に戻った。その一拍で彼女の眼がさえぎられた。コートの下は雪の白さのタートルネックだった。
 左手には、一昨年のクリスマスに史華が贈ってくれた手袋をつけていた。鹿革のオーダーメイドらしく、事故で欠損した薬指部分には詰め物が入れてある。薬指は小指と縫い付けてあって、違和感なく拳を握れる。
 もう馴染み客ばかりだから、左手の擦過傷と薬指欠損には無頓着になっていた。それは客商売だから気を使わないと、と史華に言われた。
 その言葉に忠実に従ったのは、客層が若干の若返りをしたからで、雰囲気を醸し出した史華には感謝している。だから仕込みや洗い物を終えて、カウンターに出るときはつけるようにしている。
「・・新年早々だけど忠告してあげようかな。そうね、手厳しいお神籤みくじを引いたとでも思ってね」
 珈琲のカップをことりと置く。砂糖もミルクも添えない。彼女は微笑んで、細い指先でカップを取り一口を含んだ。
「変わらないわね」
「日々精進している、昔より巧くなったと自信はあるが」
「これは美味しいわ、変わらないのは貴方自身のことよ」
神饌しんせんを賜ります」
 七瀬は一瞬だけ口をつぐんでいたが、吐き出すように言った。軽妙にかわそうとしたことに立腹したようだ。
「貴方は、失うことを畏れないで。失うことを臆病に畏れるあまりに、相手との距離を広く取らないで。たったそれだけで、素直に他人を受け入れられるわ」
 臓腑を抉るような言葉だった。あるいはこの女性は人生の軌跡を共にした相手だった。両輪で支え合い、お互いの人生を乗せて走ったかもしれない。
「ありがとう、忠告として受け取っておく」

 夕方になって自宅に戻った。
 納屋を開いて、冬眠している愛車に向かいあった。
 まだ日があるうちは自宅に戻りたくはない。喪失した時間を味わいたくはない。作業をしているだけで気は紛れていく。
 降り積もった埃をウェスで丁寧に拭う。オイル沁みは灯油を含ませたボロ布で拭き取る。大蛇がとぐろを巻いているかの力感的なチャンバーを磨いていく。そしてワックスでタンク周りや、銀色のトラスフレームを輝かせていく。
 バッテリも繋いで跨った。
 チョークを引いて、キックペダルを出して、体重をかけて踏み抜いた。
 今の気温では不機嫌極まる。
 小刻みな調整を行って、ようやく初爆して咳込み始めた。その荒い呼吸を繋いで獰猛な獣が目覚めの一声を上げる。
 エンジンをアクセルワークで宥めながら、ゆっくりと温めていく。
 管楽器のように精緻なトラスフレーム。
 孤独の魂のみを積めるシングルシート。
 痩せた虎狼のような相棒だ、と思った。
 

 

 

 
 



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