剱岳でショコラバーを
なにかの冗談かな、と思った。
梅雨の終わりを告げるような雨で、Caféで雨宿りをしていたときだった。
晴登は大振りのマグでラテを飲んでいて、映画に誘うような気軽さでいった。けれど真剣な面持ちだったので、さらに息を呑み込んだ。
「だってまだわたし、初心者みたいなものよ。剱だなんて」
富山湾からの季節風を屏風のように遮る立山連峰があって、その主峰を剱岳という。毎年のように登攀者の命を散らす山として、近寄りがたい存在だと思っていた。
「ふうん、初心者だってもう言えないよ。昨シーズンもかなりの登頂経験を積んだはずだよ。それに厳冬期でも炎天下でもないし、剱をやるとしたらまず天候も安定した時期だからさ」
確かに7月中旬で登攀にはベストシーズンかとは思う。それにしても腕は未熟で足手まといでさえあると思う。山男の浪漫は理解はするけど、万が一そこで散るリスクを考えてしまう。
その逡巡が表情に出たようだ。
「この登山サークルに入って4年だろ。大丈夫、おれがサポートするから」
と微笑んできた。
年下の彼氏って、本当にズルいと思った。
高原では、平地の皐月晴れみたいな陽気が続いていた。
まずは装備多めの観光客でも辿りつけるルートを取る。
室堂ターミナルからみくりが池沿いを進み雷鳥沢を超えて、剱沢でテントを張った。陽光は眩しく、予想外の観光客で幾重にも揺れるディバックを見た。その群れに混じり、アタックザックに装備された道具が、か細い金属質の音を立てているのを聞いた。
その晩はふたりで装備品の最終チェックを行った。
夕飯はレトルトカレーにベーコンを刻んだものを加えたクッカーを、ガスバーナーで焙った。そして湯せんしたパックご飯にかけて済ませた。満天に煌く星々を見上げ、白く湯気の立つ紅茶を飲んだ。テントの幾つかは内部に灯りが篭もり、それが色とりどりの幸せの形に見えた。
アタックのために午前3時に目覚めた。
大丈夫、大丈夫と言い聞かせた。
夏至も来月だけど、周囲はまだ漆黒の闇に沈んでいる。軽く汗ばむくらいを維持しながら雪渓のある道を慎重に進んだ。
一方の晴登は手本のような足捌きで、その踵が踏んだ位置を忘れずに重ねたら、重心を狂わせることなく高度を稼ぐことができる。
ほらぁ、まだまだわたし、雛っこじゃないの、と内心では舌打ちもくれていた。
さあ、文化的で衛生的なコンポストトイレがあるのも、この剱岳山荘で終わり。用を済ませて、剱岳の前岳の正面に座って、小休止をした。足を止めると谷底から吹き上げる風に、上気した肌が冷えていくのを感じる。
「天候はどうなの」
「低気圧が近づいているけど、この辺りにはまあ寄りつけないだそうだ」
スマホで天候を判断しているけど、それはお山の気分次第。彼は名前がそうだからといって、晴れ男で山男を自慢にしている。
「わたし、雨女なのにな」
振り返ると、鱗のような石の羅列が谷底にまで繋がっていた。そして僅かな土塊を奪い合い、翠の絨毯が細い根を張って噛みついていた。
やっぱり天候は暗転した。
剱岳で難所と呼ばれる鎖場エリアに、既に入っていた。
鎖場は10ヶ所ほどあるし、最初のはまだ鎖に頼らないで高度を刻むことができた。後続の登攀者に落石を起こさないように胸の奥で、3点確保、空いた手足の1点だけを動かす、と念仏のように唱えていた。
神様が磐を組み上げて、立山修験道の鍛錬場をつくったような場所で、呼吸が詰まる。高度感がありすぎるので視線を足元だけに集中して、その先の奈落の底を意識しないようにする。
その石積みの隙間にさえ、高山植物が風雪に耐えて、葉を伸ばしている。そんなほぼ垂直の岩壁を、昆虫のようにへばりついて登っていく。
ガスが出てきたな、晴登の独り言が上から落ちてきた。
視線を向けると前岳の背後から、薄白い雲が山容を搔き抱くように伸びていく。白い波濤に呑まれていくようにも見える。
北風に、棘が顔をだしたような痛さがある。
彼が提案をして、次の鞍部に出た場所でビバークすることにした。通称、カニのタテバイと呼ばれる9番目の鎖場の手前だった。
そんな視界で難所を超えるのは厳しいという判断だった。
庇のようにせり出した岩陰に、ツェルトを置いて、しっとりとなった靴下を交換した。登山用の肌着は汗をすぐに体温で乾かしてくれるけど、靴下はそうじゃない。その時に足裏にカイロをいれて冷え防止にした。
並んでシュラフに収まったけど、しんしんと冷気がお尻から伝わってくる。
彼はツェルトの上にフライシートまで張ってくれた。
「ごめんね、ちょっと高山病気味で頭痛いの」
「ああ、おれの方こそ無理をさせたみたいで」
「でも大丈夫、生理痛のようなものだから。明日になればアタックもできるかも」
「食欲は?」
「行動食なら食べれるかも」
今日だけで4ℓの麦茶を消費している。半分以上はわたしだった。極度の緊張感の連続で喉がひりつくようだった。その割には尿意はないのは、ほとんど発汗にまわっているのだろう。
アタックバックからショコラバーを出した。
市販のものは甘すぎてすぐに飽きてしまうので、わたしのお手製だった。発汗で失った塩分を補うために、塩味多めでプロティン多め、こちらが腹もちもよくて栄養価も高いし。それを分け合って食べた。
ビバークしているパーティは、まだ2組いた。
無音に近い岩壁では、互いの声が遠くまで響く。
皆が声をひそめて何かを語りあう。
岩肌の隅にいくつもの命が温め合いながら、夜明けを静かに待っていた。
肩を揺らされると、赤紫色に宙が染まっていた。
繭の繊維を散らしたような雲海に、朱に染まった岩峰が聳え立っていた。吐息が雲のように白く、顔に貼りついてくる。
山が曙光に輝く瞬間を、宙空で眺めるのは初めてのことだった。それを想い出に刻めるのは、この垂壁に食いついている一握りの登攀者だけだ。
「今日はアタックするの?」
「いや、下山しようと思う」
「わたしのせい?」
「いや違う。無理強いしたおれのせいだ。高度を下げてきみは体調を整えて欲しい。まだチャンスは山ほどある」
ほっと安堵した。ここからの道筋の困難さは疑いがない。
「ザイルを繋いで、そして山頂の神社で誓いたい、そう思っていた」
はっとした。
その眼は、あのCaféでも見たような気がした。
「指輪は下界に置いてきた。一緒にそれを取りにいくよ。きみを安全に導くのが、おれの仕事だ」
彼は背筋だって割れている。
右手の中指と人差し指だけで懸垂をらくらくやってのけるし、道具を使わないで指先でくるみを潰すほどの鍛錬を積んでいる。その背に縋っていれば、どんな峰も難なく越えれそうな気がする。
「おれの稼ぎは多くはないかもしれない。それでも最初に得た糧はきみの唇に」
昨晩のショコラバーを取り上げて含ませてくれた。
「わたしの御馳走は物足りないかもしれないわ。それでも一番大きなひと掛けを貴方のお口に」
大振りに切ってしまったそれを摘まんで、彼の唇に。
そして肩を合わせて。
緋色に染まる神峰と、閃光を浴びて舞う鳥の影を、見た。