人魚の涙 25
ごぼり、と泡が海中に溢れている。
驚愕の余り、息を詰まらせかけた。
ゆらり、と目前を艶めかしい背中が流れている。
毛穴まで見えそうな、静脈さえ透けそうな距離。
海面から遠く淡い光源のためか、体温の感じられない生白い背中だ。
その背の上に、黒髪とも金髪とも違う、銅板の色味を帯びた長髪がたなびいている。その髪を目で追っていくと、腰からは肌色を失い、蒼い鱗を持つ魚類の下半身がある。明らかに魚の形状をしているが、その鰭は水平に水を蹴る哺乳類のそれだ。
ついに彼女が現れた。
眼は合わせていない。
思慕にも似た思いが、憔悴に上書きされた。
先の断層に流された神門さんの存在がある。
さらに雌賀島の老漁師が語ったではないか。
人魚は、ひとを喰うからのう。
人魚の先手を取ろうと試みた。
《ここに在る》と思念波で呼びかけもした。
少年だった頃に呼びかければ応えてくれた。
しかし一瞥もしないで、軽々と彼女は静止の指先をすり抜けて泳ぎ去っていく。ダイバーにフィンがあろうが、比較にならない自由度が水棲生物にはあった。
龍の祠に見えるそれこそが、亜瀬と呼ばれる場所だろう。
柱状列石が折り重なり、一見して自然石に見えるが、平滑な表面には意思を感じる摂理がある。
ひょっとしてその内部には、魂状位石と対になる鳥居状の巨石があるのかもしれない。
不知ずして此の上を船渡る時は、忽ち変あり
山彦山神社の由緒書きにそうあるのを、学芸員の橘が見せてくれたばかりだった。
巨岩の隙間から光が差している。
その中へ身を翻して彼女が吸い込まれてゆく。あの間隙の海流はそれほどの強さなのか。
そして深淵から溢れて来る、あの光源の正体はなんだろうか。
フィンを蹴りだして中性浮力をとり、慎重に距離を稼いだ。
大丈夫、神門さんのエアはまだある。先刻に確認し合ったはずだ。
きらきらと輝く赤髪が現れた。
黒いものを抱きかかえている。
神門さんのウェットスーツだと気がついた。
顎の発達したその顔に、彼女が唇を寄せている。喰われてるのか、と思いきや、違う。彼のレギュレーターが外れて泡が溢れている。それを彼女が含んで彼に口移しにしている。
私はひと蹴りでその場に潜った。
《これ、未だ動ける?》
頷くことしかできない。
彼女は笑みのような表情を見せた。
大丈夫だ、すぐにレギュレーターを口に戻して、さらに人工呼吸を行った。初期の蘇生措置は済んでいる。5秒おきにレスキュー呼吸をしながらあがろう。
人魚が私を振り切ったのは、命を拾いに危急した為か。
さほどの深度ではない。
緊急浮上を行っても潜水病の恐れはない。
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