長崎異聞 26 I てのひらの恋
橘醍醐は、政治も分からぬ。
女心の理解など、雲の上だ。
彼の周囲はキナ臭くなった。
権謀術数が渦を巻く日和だ。
全てはかの兵部大臣という大村益次郎、名乗りは村田蔵六という男の出現でもある。彼が真に当人であるとの確信は未だ不安定だ。何しろ出会いは志那人の経営する遊郭である。
しかしながら彼への周囲の饗応をみれば、彼はそれだけの値打ちのある男なのだろう、ということは判る。
彼は蔵六に問うたことがある。
なぜ李桃杏を遊郭から身受けしたうえで、さらに養女として認知し彼に娶わせようという言動をするのか、と。
この時、彼は大いに困惑している。
なぜかユーリアの声が尖っている。
目線に険相があるような気がする。
あれもこれも。
彼が、蔵六と不審な姑娘たる桃杏を伴って、陸奥宗光邸に朝帰りしてきた日からに思える。その問いに蔵六は事も無げにいう。
「清人はな、志那人とは別種なのよ。しかもあれは日本人との混血でな。立場がちぃと異なる。それでもな血が混じっている以上、こと金に汚いのは性分よ。ここで聞いた情報が、館内の志那人において換金できるかを自問しておる。しかしな御身との婚姻が掛かっているとしたらいかがか。天秤にかけさせると、自然と当方に傾くよ」
「それは打算というもので、桃杏にとってはあんまりで御座ろう」
蔵六ははたと膝を打ち、「流石、儂の見込んだ御仁」と宣う。自然と口調が丁寧なものに醍醐は受け止めた。
が、しかし、かように論議を結ぶのである。
「女性というものは、掌にある恋心には、いやいや勝てぬものよ」
つまり数理が全ての男だとは判った。
彼が鬼、と呼ばるる理がそこにある。
醍醐は官吏でもある。
所属は長崎奉行所だ。
定期的に報告の責務がある。
彼は陸奥邸を立って、大浦海岸通りをそぞろ歩きしながら歩いている。
その日は誰も来客の予定はなく、邸では亮子夫人とユーリアが西洋菓子を作ると言っている。
そういえば、蔵六と桃杏は昨夜から姿を見せぬ。
彼らが何の謀り事を進めているのは、彼には興味を持てぬ。それを欲しているの長崎奉行所ではあろうが、国家の大計の絵図を描こうとしている男の横槍は刺せぬ。その程度の分別はある。
そしてこの殺気も承知している。
館内への脇道をついと回った交差点である。
ばらばらと浪人風体の男たちが姿を現した。
ほお、と醍醐は呟き、腰の同田貫にゆっくりと手をかける。
ざっ、と砂ぼこりが靴先に立った。