風花の舞姫 半裂 10
陣地内のどよめきが沸いた。
蒼白い霧絹を纏った人影に三本の投げ槍が貫き通され、足を取られよろめいたからだ。闖入者が強敵であると知らされていたのであろう。快哉を込めた勝鬨が夥しい。しかしながら、その中にある私は冷静に忍び寄っていた。
私は闇に溶けている。
霧絹を操って、氷像の幻を操っていたのだ。
薄氷で人影を形造り、水に私を擬態させて歩かせていたのだ。
その代償として何も纏わず、全裸でここまで這い寄ってきた。矜持をかなぐり捨て、汚泥を全身に塗りたくって、蛇のように蠢いてここまで来たのは、守将であろうこの影を喰うためだ。
そっとその影を背後から抱きすくめた。
肌に塗りたくった泥が一気に凍結していく。
はらりはらりと泥が剝がれていく。
帯電流でさえ動きを鈍らせる極寒域に、その男を引き摺り込む。
小指も動かせずに彼は冷凍破砕された。それからその守将を喰べた。彼の意識が脳裏に挿入されてくる。陣立ても全て把握した。後はその守兵の頭上に、液体窒素の矢の雨を降り注ぐだけだ。
相手は真田の兵だった。
城に篭る守兵の亡霊は、天正十年の城攻めと信じている。
織田弾正忠信長が京の本能寺で横死し、織田方の重石の外れた信濃に戦乱が再び巻き起こった。
真田氏はこの城に籠り、幾度も包囲戦を戦っている。かつては自らがこの城に仕掛けた包囲戦、つまり飢え殺しを受けている。亡霊たちの水に対する渇望が甚だしい。
そして望月氏が反旗を掲げて北条氏側についたと知らされている。それで近親憎悪的な硬い闘争心にかられている。
その望月の歩き巫女など怨嗟の対象であろう。
この絵を描いてみせたのが、石女尼なのか。
私とは違う。扇動に長けている。
このような闘いを蔑んでいたことを悔いた。
「無事だったのか」と戻ったときに、声を震わせて甘利助教は呟いた。
「教えて。本能寺のとき、この尼飾城はどんな運命を辿ったの」
「この小県郡は真田幸隆の支配下だった。彼は上手く立ち回ってな。元々は武田氏の軍門だったのに、武田滅亡後には敵対していた織田家に接近した。ところが本能寺直後には、動かずに黙視した。恐らくは諜報活動で状況判断をしたのだと思う」
「尼飾城は攻められてないの?」
「本能寺が起こったのが六月で、その秋口の十月には攻められている。相手は武田の遺臣で、依田信蕃という。つまり武田の遺臣からすれば、上手に立ち回る真田氏は裏切り者として扱われた」
「機を見るに敏というのは、真田らしいわね」
「そりゃそうだろう。武田氏の滅亡は本能寺の数ヶ月前、二月のことだったから。これほど臨機応変な真田の外交力については、歩き巫女の、つまり女忍の存在があると思う」
「その歩き巫女は望月氏が関わるわね」
「ところが歩き巫女を擁しながら、望月氏は外交を失敗した。本能寺の変が伝わった六月、望月城は北条氏政に攻められて、北条氏の配下に落ちた。当主は代替わりして、若き望月昌頼になる」
「望月氏はそこで生き延びられたの?」
「いや。彼らに対しては、二重の裏切り者として武田遺臣の恨みが倍になった。尼飾城と同じく依田信蕃に激しく攻め立てられ、落城。当主は自刃してこれで直系の子孫は断絶している」
なる程、恨みの程度がかなり重い。
軍勢を形成できるまでに亡霊群が実体化できるのも、わかる。
「あの、今度は僕からもいいかな。敵は石女尼と言ったな。君が、雪女というのは、嫌というほどわかった。あれ程、氷や温度を自在に操れていてはね。それではその石女尼はどんな能力を持つと思う?」
「恐らくは水を電気分解する能力。つまり水を絶つ能力と思う。この城は餓死、枯死寸前まで追い込まれのよね。それで水に対する執着が魍魎に結びついたと思う」
「なぜそれがわかる?」
「先刻、猿鬼たちと闘ったわよね。私は液体窒素を作って液体酸素の溜まりを作った」
「何だって!」
「液体酸素よ。あれは磁性を持つから霊体である猿鬼は絡め取られてしまう。けどね、その酸素の量が予想より多かったの。つまり酸素濃度が高すぎるの。きっとあの猿鬼たちは水分を抜かれた電子体のみだったのね」
厄介な相手だ。
水が氷になるとき、体積は1割ほど膨張する。その性質を介して細胞を冷凍破砕する。私の常套手段を封じることができるなんて。
「その石女尼は今はどこにいるんだろう、さっきの真田兵たちには水分があったのだろう。あの氷礫で砕かれていくのを見たよ」
そうだ。
さっきは彼女のいた気配がない。
「もうひとつ、能力があるのかもしれない」
「どんな?」
「あの帯状発疹に似た症例よ。あの痘痕はね、神経系に出るそうなんだけど。神経系を超えている。石女尼の受けた処刑の傷跡に発症しているの・・・」
私は口籠った。
「・・・もしかすると憑依ができるのかもしれない」
「憑依!」
「自分の寄生木になりそうな肉体を探しているのかも。同じ場所に痘痕を出して、その肉体を侵食していき・・・」
ぞくりと悪寒が貫いた。
粘い汗が噴き出したようだ。
色葉が危ない。
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