COLD BREW 28
祐華の制作が始まった。
彼女の横顔にぴんと張りがでたように思える。
時間を持て余して、店に居座ることも少ない。
逆に制作のために家に篭りがちなので、淹れたての珈琲をポットで渡しているくらいだ。
この家に運んだ祐華の家具は少ないものだった。あれほど物持ちだった彼女が、質素な暮らし向きをしていた。
病室に持ち込んでいたのはiPadと衣類のみ、木造のアパートから箪笥と見事な彫刻がなされた曲木細工の椅子、それに寝具と衣装がひと竿ある程度だった。それよりも床に散らばった冷凍食品の包み紙に、僕は背筋がぞっとした。
ここまで病と孤独に追い詰められていたのか、と。
闘病の末に追い込まれた心情に、なぜ毒を吐いてしまったのか。
この家に軽トラで家財を運び込んだあの日。
あれを見ちゃったのね、と祐華は寂しく微笑した。それから、もう見栄なんて張れないわと独り言のように言った。
初夏の息吹が山麓を覆うようになった。
その頃には祖父が贈った椅子に座り、食卓を作業台にして下書きを始めた。作業に没頭しているときは、黄昏れで日が落ちていることも気づかないほどだった。
下書きはペンタブで描いているという。そちらは見せてはもらえない。
キャンバスは彼女が寝室に使っている、和室の大広間に立ててある。
下地であろうか、全面に暗色が塗られて、架台に縦に置かれている。幾何学的な十字が重なり合うように、薄い青のパステルで引かれている。
「まだ見ちゃ駄目よ。恥ずかしいから」
そう言って襖を閉める。
「見ても何も分からないさ」
「不完全なものを見て欲しくないのよ」と唇を尖らせる。
通院は続けていた。
支払いにいくらかかっているのかは、知らない。
同居をするようになって、彼女の経済状況が透けて見える。
「デザイナーっていうのも面映ゆいわ」と自嘲する。
彼女の仕事は、パッケージ作りが中心だった。それは紙箱の外装だったり、段ボールを複雑に組み合わせて精密機器を固定する角あて緩衝材も設計していた。外注先は複数あって、入院中でも仕事は継続できていたという。
「中身のなかった私に相応しいわ。ガワだけに魅力があったのよ」
「そんな哀しい言葉は聞きたくないね」
祐華はオムレツに添えられたミニトマトをフォークで小突いている。ちょっと悪戯っぽく笑う。学生時代のそれを見た思いがする。
「そういえばさあ、どうしてわたしが貴方に興味を持ったか、話してはいないよね」
「ああ、どうしても理解できなかった。なぜ学校の高嶺の花が降りてきたのか・・・」
そうね、男の子って気づかないよねと、手首で小顔を隠しながら声を出して笑った。その弾けるような声を聴くのは嬉しいものだ。腫れ物を扱うように接していくのは、精神が鉋がけされるように薄く薄く、だが着実に削られていく。
「初めてのデートって覚えてる。キミがスタンドでバイトしていて、そのバイト上がりに入ったお店」
そうだ、最初のデートというものはあの瞬間だった。
「わたしはね、なんか創作の種を探していたの、あの頃。課題として探していたのは、粗削りであれば何でもよかったのよ。そんな興味本位だったのよ。でもあのときキミは何を言ったか覚えている?」
懐かしい。
キミ呼びになっている。口調があの頃のままに。
一学年上の生徒会副会長のものに聞こえてくる。
「覚えてませんね」と敬語口調になるのを抑えきれない。
「こう言ったのよ。貴女は綺麗だと聞いていましたが、ちゃんと向かい合うとそんなに美人ってわけではないですね、って」
顔に火が付いた気がした。
「そうよね。覚えがあるんじゃなくて」
「まるで覚えがない」
「そうよね。わたし、びっくりしちゃって。面と向かって本人にいうのよ。後にも先にも、そんな口をきいたのって貴方だけだわ」
でも忘れないでね、と囁くように付け加えた。
「そんな口を叩かれて、わたしが席を立たなかったのもキミだけだし。そしてまた会いたいと思ったのもキミだけよ」
空のカップを見せてきた。
「だからお代わりを頂戴」
苦笑して席を立った。
二重に絡み合うリングがある。
セットリングとも呼ばれている。
婚約指輪と結婚指輪を同時につける新婦も多い。
その指輪はちょっと違っていた。
相似したデザインのリングが連結され、専用治具でないと分離できない。明らかに一方は男性向きの大きさのようだ。
そのデザインのラフを見てしまった。
しかも品番まで揃っており、製品化もされているようだ。次の頁には別デザインが描かれて、シリーズになっている。
ふと自分の左手をかざした。擦過傷の引き攣れた肌がうねっている。そして薬指は第二関節から欠損している。
そんな新郎のために、デザインされた指輪に思えた。
新婦の指に、信頼の証を託した意匠にそれは見えた。
本来なら自らの指に輝く未来を夢想したのだろうか。
日に焼けたスケッチブックのなかにそれはあり、ちゃんと筆記体でYUKAのサインが残っている。
彼女の秘密を暴いたような気がした。