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COLD BREW 32

 扉の呼び鈴が、乾いた音を立てた。
 僕はオーヴンの掃除をしていた手を止めて、膝立ちの体勢からいらっしゃいませと、声をかけた。夜間営業の看板をおろし、もう外灯も落としていた。
 もう街には電飾が為され、賑やかで耳障りなクリスマスソングが流れだしている。こんな時間にも人通りは多くなってきた。
 観光客から道案内を頼まれるのか、酔客からトイレを貸してくれとごねられるか、ご近所から急場の要件があるのかと腰を伸ばした。
 シンクに左手をかけていたので、体重を支えられた。
 喉が詰まってその後を言い淀んだ。この凍りついた顔に、彼女から平然と声が掛けられた。
「変わらないわね、この店。幾分は古びては来ているけど。丁寧に掃除をしているのね、それが年輪になっているわ」
 痩せたな、というのが第一印象で、見慣れていたその横顔にどうしても焦点が定まらない。
 ビジネスコーデという奴らしい。襟がリボン状になった灰翠色のブラウスにジャケット、黒のレザーコートを肩にかけていた。
「残念ながら年輪を刻めぬままに、僕の方は古びてしまった」
「何おっしゃるの。まだあんなのに乗っているの、凝りてはいないのね」
 この店舗の脇に停めているバイクのことを言っている。
 もうこの国では生産されないであろう、細身の車体にトラスフレームが鈍色に輝く。原付程の軽量で小振りなボディに、高出力の心臓を積んでいる。
「あれは年季を重ねていても整備を続けているから、現役アスリートのままだ」
 ひさしぶり、と小声で添えた。
「貴方に名刺を渡す日がくるなんてね」
 渡された名刺には耳慣れないカタカナでの役職に、見慣れない苗字が冠されていた。
「えっと茅野七瀬さん?」
「呼びづらいでしょ、前と同じ七瀬でいいわ」
「それは困る。やはり茅野さんと呼ばせて欲しい」
 旧姓の七瀬と、彼女とは違う。
 元婚約者と、人妻との違いだ。
「私こそ馴染めない、違和感あるんだけどな」
「礼節というものだから、茅野さん」
「わかった、そういう事にする」
 ミルクパンのなかで水出し珈琲COLD BREWが温まってきた。それをカップに注いで彼女の前に置く。定位置がそこであったようにカウンター席に座った。
「5年ぶり・・・かしらね、この珈琲をここで頂くの」
 そう。
 彼女の誕生日でもあった日が、最期でもあった。
「連絡できずにすみません、茅野さん。本当にお世話になりました」
「嫌だ、ますます他人行儀になるのね。まあいいわ・・・彼女はちゃんと看取ってあげたのね」
「ええ」
 祐華の病状を七瀬も知っていたのだろう。
 それでこの店がまだ存在して、そして僕がまだ経営していることを昨秋に連絡したのだろう、と兵藤先生は推測していた。
「待っていたのよ・・・連絡」
「すみません、何と声をかけていいか。その距離感が」
 彼女は困ったような笑顔を見せた。
「そうみたいね。突然に来てごめんなさい。丁度この鎌倉で打合せがあって、この時間ならお店も閉めている頃合いだなと思ってしまって。悪気はないのよ。貴方はまだ整理できていないみたいだから」
 まだ熱いだろうに、珈琲をくいっくいっと3回に分けて吞みほした。
「それは僕からの奢りです」
「連絡だけは頂戴ね」
 そう言って再び、扉を鈴を鳴らせて去っていった。
 まるで幻だったかのように、店内が静まり返った。
 しかしカップの飲みさしに口紅の痕が残っていた。

 数日が経過した。
 扉の鈴が盛大に鳴った。
 史華が制服姿で、久しぶりに息を弾ませて飛び込んできた。
「ねぇねぇマスタ!聞いてくれる。今日はさ、何てゆうのセンター試験が今度で最期じゃん。それでね、何てゆうの新しい共通テストっての。その模擬試験があったの。もう散々よ、自己採点したんだけど。もう無理じゃん。来年なんて考えられない!」
 一気に捲し立ててきた。
 まあまあ落ち着けと、こちらは耳を傾けながらCafé Au Laitを淹れている。
「落ち着いて、ゆっくり話して欲しい。部外者にも理解できるように」
 カウンター席について、声のトーンが落ち着いた。
 どうも受験制度が大幅変更になるらしい。
 今年度まではマークシート方式の知識偏重型が、来年度からは思考力中心になるらしい。つまり浪人生にはかなり不利になるという。その検証のために新方式出題の模擬試験を受けてきたというわけだ。
「さあ!」と声をかけて史華が席を立った。
「どうした、久しぶりなんだ。もう一杯奢ってあげるよ」
「そうね。ひと仕事したあとね。女子トイレを磨いてくるわ。マスターの掃除では女子目線では不合格よ。視点が違うの、視点が」
 そういってゴム手袋をはめてトイレにこもり、掃除を始めた。
「あのね、マスター」とくぐもった声が流れてきた。
「頑張ってきたんだけど・・・横浜国大、無理っぽ」
 元気を装う声だ。
「だからねえ、長野にいくの。信州大、そこの繊維学部」
 語尾が崩れてきた。
「ここでね、役に立ってあげたかったんだけど」
 涙声を隠している、敢えて目線を浮かせた。
 掛ける言葉を、拡げては折畳み、沈黙した。
 ブラシの音だけがリズミカルに続いていた。

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