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風花の舞姫 女郎蜘蛛 2
旧来、逃げ足は疾い方だ。
戦さ場では生死を分かつ。
その信条は前世譲りかな。
かの我がお館さまの言を信ずれば、だが。
最初はその娘をお姫様のように両腕で抱えて路地を走った。そして漆喰のなまこ壁の居並ぶ中町通にまで辿り着くと、背中に背負うことにした。
腕が痺れたのではない、疲れたのでもない。
目立ってしまうからだ。目撃者を残したくはない。背負えば酔った相方を介抱しているように見えるだろう。顔立ちさえ隠れていれば、この年齢差への違和感もなくなるだろう、と考えた。
さらに中町通りは古風な雰囲気に満ちて、この時間帯では主に観光客がそぞろ歩きを愉しんでいる。つまりは順繰りに証言を繋ぎ合わせても、尻尾も摘まむことすらできない。
事故現場からの逃走だったが、頓着しなかった。
冷静に考えれば器物損壊と傷害罪、道交法違反も入るかもしれない。この娘を緊急救助したということを割り引いては貰えるだろうが。
果たして信州大学というお堅い職場が理解してくれるだろうか。警察に通報するまでが推奨されていて、荒ら事までは求められていない。
不逞のベトナム人がヴァンを急発進させてバーに激突した、という現場検証だけで事が終わればいい。
元来、連中がこの娘の略取未遂の件を、自白する訳がない。
単なる物損事故であれば、監視カメラの解析もないだろう。
連中は口を拭って証言を嘘で糊塗し、さらに僕の容姿から素性を探ろうとするだろう。それを撹乱するためにエアバッグを作動させ、視界と意識を奪った。あの一瞬の姿が、鮮明に網膜に残っている筈はない。
ヴァンを跳ね飛ばした男が、まさか大学の助教授などとは思うまい。
「・・ねえ、どこに行くの?」
「家を教えてくれないか。タクシーを拾ってもいい」
吐息が耳朶にこそばゆい。彼女は沈黙している。それはそうだろう。どこの馬の骨とも知れない相手に、容易に住所など明かさない。先刻、怖い思いをしたばかりだ。
「信大の学生?怯えなくともいい。僕はそこで考古学の助教をしている」
「・・はい、今年の入学です」
「だと履修が終わったばかりか」
その言に重ねるように、「ええっ?考古学?ですかぁ」と当惑の声がした。
「ああ、そう見えないか。映画でもあるだろう、伝統的に考古学の教授ってのは、襲い掛かる敵に不自由しないものだ」
背中に顔を押し付けて笑っている。
柔らかな肉の生々しい感触がある。
細身に見えた肉体には、厚い引き出しがあるらしい。
っ、と首筋に稲妻のような電流が走った。
ヴァンから救出したとき、彼女は衣服の前を裂かれていた。肌を晒す羞恥が、その車から逃げ出す気持ちの壁になる。
それをコートを喉元で握って隠していた。だが背中に蠢くのは、まるで素肌が当てられているような臨場感だ。じわりと、右耳を軽く齧られた。その前から妙な吐息がかかっていた。
彼女の両脚を支えているのではない。
両脚で絡め取られている、房中に堕ちている、そんな想像がする。
四肢だけではない、もっと多くの脚が絡まっている錯覚がする。そして背中から臓腑を喰われそうな惧れを感じる。荒ら事よりもこの身体が怯えている。むしろそっちとの対峙は愉悦でもある。
蜘蛛の雌は、交尾のあと雄を捕食して、産み出すであろう卵の養分にするらしい。雄は逃げることなく粛々と、己が運命を悟り抵抗もしないという。
その構図が脳裏に浮かんでくる。
一方で前屈みになる程の劣情をもよおしている。滾る熱い衝動が鎌首を擡げて、布地を押し上げて窮屈だからだ。
逃げ足の速さだけが運命を分つ。
その顎の牙を躱すことが先決だ。
娘を地面にそっと立たせてみた。
きょとんとした眼に邪心はない。
玄関のインカムを鳴らした。
事前に連絡を入れてあった。
この時間の女性宅への訪問は、いささか気が引ける頃合いだ。
カメラで確認したのかも危ぶまれるような時間差で、ロックが解かれて扉が押し開けられた。
「こんばんわ、甘利先生」
風呂上りなのだろう、湿めっぽく甘い香りがする。ショートの髪がまだ水分を含んで、殊更に黒い。裸足に部屋着らしい灰緑色のスウェット姿だ。
後頭部に玄関灯を背負う、逆光の元で艶美な微笑みを浮かべている。以前の彼女と比較すれば、より穏やかで毒気がない。それでも凄絶な美しさは相似形だ。
「こんばんわ、電話でも話したけれど、この娘を一晩泊めてくれないか?僕の家は独り暮らしだから」
「そうね、世間の目は厳しいものね」
「馘が掛かっているような案件だし」
「お名前は?私は北川史華、理学科の3年よ」
屈託のない明るい声で、史華が膝を曲げて覗き込んでくる。
「来栖小絹です。小さな絹と書いて・・・じゃあ学部も先輩なんですね!今年の新入生です」
姉の元を訪ねたように笑顔が跳ねている。先刻までの表情が嘘のようだ。或いはこの小絹という女性も、人格が複数あるのかもしれない。
史華は、小絹の頭越しに小首を傾けて目配せをした。説明は既に話してある。もう、任せてという意味だと了解した。
史華は僕のゼミ生ではあるが、もっと深い由縁がある。
彼女も心に、牙を持つ闇を飼っている。
魍魎という名の闇だ。