風花の舞姫 鏡鬼 2

 微風に乗って花の香りがした。
 六花と名乗る女性は、まるで昔から友達だったかのように隣に来て、そっと歩き出した。意識してるのかしないのか、歩き出しに少し肩が触れた。
 まるで誘うように。
 わたしもその歩みに沿って並んで歩いた。
「母からの依頼ですって」
「そう。神奈川にも、ご実家にもいるのよ。今もあなたが」
 躓いてしまうような一言だった。
「それはわたしなの。本当に?」
「ええ史華さんそのものなの。それでもスマホに電話してみたら、信州大にいるでしょう。あちらの史華さんは留学をしたいからって、神奈川でバイトしているそうよ。学校は休学扱いにしたって言ってね」
 留学をしたいという思いはあった。それを両親に話したことはない。それでこちらでバイトを始めたのだ。それもこっそりと。
「ご両親はむしろ大学生になって、活動的になったとお喜びになってたそうよ。それで先週のことだけど、バイト帰りにねって、メールでお買い物リストを送って頼んだの、貴女に。そうしたら『何言ってるの。わたしは松本だよ』って返信が来たそうよ」
「すみません。そのやり取りに覚えがないです」
「あら、そう。だったらまた別の貴女が受けたのよ。きっと。その返信があってから、バイト先からご実家に帰宅してきた貴女をじっと見て。お母様が違和感を感じたのよ。それで私にご依頼があったということ。お分かり?」
「六花さん、あなたは一体?」
「私は舞姫、巫女なのよ。それで色々な悪霊とか、魍魎をお祓いしているの」
 ああ。
 そうなんだ。
 悪霊か魍魎なのね。
「これから貴方のアパートに行くわね。そこで鏡を預かるわ」

 住宅街の通い慣れた道。
 新しい街区ではないので、道が細く曲がりくねっている。家賃相場が安いので、この街区に住んでいる。建物も古びてはいるが手入れが良くて、軒先には住人が育てた季節ごとの花が咲いている、そんな温かい町だった。
 なのに今晩ときたら、重苦しい闇に包まれている。
 不思議と人通りがなく、二人の足音だけがかつん、かつんと響いている。まだ秋の入りの筈なのに、陽が落ちると風は冷たくなった。
 なんだかこの女性といると、空気の密度が上がり却って息苦しい。
 まるで大海の水圧にもがいているように。
 まるで海流の重圧に流されているように。
 手のひらにつかめそうな物理的な夜の闇。
 その苦しさはどこから来るのかと考えた。
 この哀しみは魂が裂けたものかと疑った。
 あの巫女という彼女は、わたしの鏡に何をするのかとも考えた。
 預かる?
 祓うと言っていた。
 お祓い?
 その後はまたわたしのものになるの?
 奪われる?
 いや盗むんじゃないの?
 本当に母親からの依頼なの?
 Messageはなりすましかも。悪霊も魍魎も全てが嘘で、わたしを騙す気かもしれない。彼女の存在が急に禍々しいものに思えてくる。
 ぞっと悪寒が背骨を駆ける。
 最初に見た時、あの鏡は掘り出し物だと思ったわ。
 手に入れてみれば、漆が薄くなり剥げていたり、磨かれた鏡面の、無数の小傷のひとつひとつが刻まれた歴史に思える。自分の人生の数倍を生きてきた証に思える。
 それが悪霊ですって。
 それが魍魎ですって。
 ぶわおっ・・・
 舞い上がった。いや駆け登った。
 見慣れた住宅街の、屋根が足元にある。もうそれは初めてみる心躍る光景だ。
 闇が押し固めてできた階段を、いや梯子を、いや糸のようなものを、わたしは苦もなく駆け上がる。身体が軽い。羽のように軽い。
 わたしは中空で嘲笑った。髪がばさばさと風を巻いて暴れている。
 あの六花はこの高みには来れない。そうよ。地べたを這いずる、翼のない生き物に過ぎない。
 こんなにも夜は自由なのに。
 こんなにも雲には届くのに。 
 六花がきっと瞳を開いて睨んでいる。
 そしてその双眸は黄金色に輝いていた。

 わたしは舞い降りた。
 化鳥が羽を畳むように音もなく。
 木造のワンルームのアパートは側面に階段があり、上下階の4部屋が南に向いていた。けれども敢えて私は一番西側の部屋を選んだ。
 西陽が辛かったが、ベランダごしに見切れているけど改修工事中の開智学校が見える。
 屋根下から一部は工事用の防音幕に覆われているけど、蒼い鐘楼が風格を持ってそこにあり、工事を終えて内部に入れる日を心待ちにしている。
 静かに階段を上り、自室の前に立ちキーを探した。
 廊下の照明がちかちかと瞬いている。
 見つからない。バックの底までも探ってみたけど、キーホルダーの感触がない。そんなハズはないと焦っていたら。
 ドアがかちゃりと音を立てて開いた。
 心臓が音を立てて鳴り、わたしは後退る。
 部屋の灯はついてない。その隙間からぞろりと影が人間の形に結晶する。
「遅かったわね」
 そこには先刻の六花が、酷薄な笑みを含んで立っていた。途端に動けなくなった。気づくと足元が凍っている。
「寄り道をしたのよね。初めて飛んだ貴方は、蒼い鐘楼の周りを戯れに飛んでいると思っていたわ」
 痛覚を破壊するほどの稲妻が、眉間に疾った。

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