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二気筒と眠る 15

 渓流のせせらぎが聴こえる。
 鏡町の奥津渓に踏み込んだ。
 吉井川が両崖の雨滴を集めて、それが川底で流れている。
 空冷CBのエンジンを切って爆音が鎮まり、ヘルメットを脱ぐと涼やかなその水音が両耳をくすぐってくる。
 もう晩秋で師走の顔が見えてきている。
 メンテを終えたCBは快調そのものになった。
 すっかりと肉体が屋根のある生活に戻ってしまって。もう野営する時期でもないし、熊も怖いよねという言い訳で自分を納得させた。宿泊予算という縛りでどこまで旅が続けられるかという想いだ。
 それともどこかで働くかな。
 桐乃お婆の紹介なんかで、旅館で短期の中居さんができないかな。
 それとも一気に高速を抜ければ、鎌倉までは明後日には到着できるだろう。その天秤のうえに立って、気分を休めるためにここまで上がってきた。
 鎌倉に戻れば、彼との訣別に向かうことになる。
 私が中庸でどっちつかずであっても、母は違う。
 この身の賞味期限を指折って数えるお節介だし。
 
 シートバッグからディパックを取り出した。
 中には珈琲セットが入っている。安心院の観光農園での生活で、珈琲に凝ってしまった。同僚だった小菅くんの影響だろうな。豆の種類にもこだわって、携帯用のミルすら今では使っている。
 紅葉と黄葉が折り重なって、蒼空を切り取っている。そのなかに翠色さえ残っている。自然が織りなす神々の布が、ヴェールのように山々を覆っている。
 平日ではあるけれど車の数もそこそこ。
 大釣橋の周辺では、撮影のために路肩駐車する観光客が多くて、軽く渋滞になっていた。CBの気楽さは、頃合いの場所で脇に停めて、この渓流まで下りていけることだ。
 もちろんこの場所は火気厳禁っていうのは判っている。
 だから手早くしないと。
 今日の豆はコロンビアのアラビカ種、それを手早くミルで挽く。回転するハンドルの隙間から溢れ出す芳香。ペーパードリップの準備をして、バーナーで湯を沸かす。ここでの一杯だけを堪忍してね。
 コッフェルに珈琲をいれて。
 街のパティスリーで求めたシブーストを、タッパーウェアから取り出して。うんうん、保冷剤をケーキのクッション代わりにしていたので、さほど崩れてはいない。
 それをお皿代わりのクッカーの蓋に置いた。
 今日は女子らしいことができている。
 そう、まだまだ私は旬のまま。

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