餓 王 鋳金蟲篇 1−1
中天に半月がかかっていた。
雨が近いのか、朧に霞を纏っている。
そのために星空が疎らで、天がひろく見えた。
私の眼でもそう映るのだ。おそらくは唯の人間には、星は見えることはあるまい。なぜなら私は途方もなく夜眼が効くのだ。
風が草原を嬲っていた。
半分枯れた葦原が風を受けて揺れている。そこには風だまりがあって、吹き倒されそうな突風があるらしい。巨人が、大鉈を振るっているようにも、女神の髪を巨大な櫛で梳かしてかしているようにも見えた。
ざぁっと風を孕んで灌木の梢が揺れる。
怪性のものが飛び交っているようにも、見えるだろう。
唯の人間ならば。
私の眼は体温が、視える。そこには何の生き物はいない。私の匂いを嗅げば、野生の獣は距離を置く。毒を持つ大蛇に交友を求めるような酔狂さでは、この大地では生きられない。
私は赤土色の僧衣を纏い、草むらの中洲にあった岩陰の狭間で焚き火をしていた。この場所は旅人には周知の場所らしく、狭間には身を横たえる土間があり、風を巻かないので火は容易くついた。
そこに陣取って、昼間に狩っておいた兎の肉を焼いている。血抜きはすでに済ませてある。火に炙られて脂が滴り始めた。腰の皮袋から岩塩を取り出して、その焼け具合を眺めていた。
そのちりちりと脂が焦げていく音に混じって、足音がひたひたと遠くから風に乗ってやってきた。革サンダルが踏み締める音。草の根元が捩れて、地に捻じ込まれる音。
遠くに、灰白く体温のある影が動いていた。
旅人か、私のような遍歴者かと思った。
それにしても、と訝しく思った。夜更けにこのような人影のない草原を急ぐ理由がない。山賊か、物取りか、逃亡者か、いずれにしても招かざる客であるのは違いない。
私はそれでも火を消すこともなく、その足音に耳をそば立てた。その心音さえ聴き取れるくらいに意識を集めた。興味を引いたのは、歩調が変わらずに距離を刻んでいることだ。敵意や警戒心があれば、足音はすっと音を顰めるはずだ。
私は意に介さない。
国を追われ、野をさ迷う遍歴者となって十余年が過ぎている。失うものは既にない。それが命でさえも。
私はかつて、純血種のみで編成されたアーリア黒騎兵を指揮していた将官である。高貴な血を持つ私には、それなりの矜持と自戒がある。その隊は、身分の階層を越えての姦淫は厳しく戒められていた。各階層の純血を維持することを尊しとされていた。
それが今やアーリア兵団には戻れない、ある烙印を押されている。
かといってドラヴィダ人にも与することはできない。
落ち着いた先がバラモンの中でも最下層の遍歴者であり、定住を許される縁はない。
もう唯の人間でもこの灯りには気づいておろう。岩室の中にいる私の姿は認めることはできまいが、そこに誰かいるのはわかっておろう。だが歩調の乱れは感じられない。度胸はありそうだ。
その岩室にいるのが、ひとりなのか、複数なのか。
盗賊ならば値踏みの間があり、逃亡者なら躊躇いの間がある。
どれ、と私は遠目にその姿を追った。
若い男のようだ。
彫りの深い顔立ちをして、双眸がきらりと光った。どうもこちらに気がついている。視線が額に届いたのを感じる。
腰布を履き、聖衣を左肩に巻いている。どちらも麻の簡素なものだ。首には紅玉の珠を並べた首飾りを何重にも巻いている。それは旅をするために持ち歩ける財産である。武人、クシャトリアのようにも見える。
背中に剣を佩びている。
柄にはこれも紅玉の装飾がある。
しかしながら身なりの粗末さとは違和感がある。どこかの王族でも誅殺して奪ったものかもしれない。
薄暗がりでもアーリア人の肌の色には見えない。
鼻が嶺羊のように曲がっている。かといってドラヴィダ人にも見えない。それは見事な銀髪を持っているからだ。ひょっとすると瞳は翠かもしれない。