【『逃げ上手の若君』全力応援!】⑮護良親王VS足利尊氏を古典『太平記』に見る……なんで護良は尊氏が怪物だって気づけたの?
若き日の私が古典『太平記』に興味を抱いた最初は、大塔宮《おおとうのみや》こと護良《もりよし》親王へのミーハー心でした。今の感覚で言えばズバリ〝推し〟だったんですね。
『逃げ上手の若君』でも、満を持して登場……と思いきや、たった14ページの間に存在感で尊氏に完敗してしまい、悲しい限りです。本郷和人先生の『解説上手の若君』でもサクッと「尺の都合上、描写は少ない」という補足がなされ、それならば私が説明しようと思い立った次第です。
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お父さんの後醍醐天皇は、僧兵の力が強い比叡山をしっかりと掌握するため、第三皇子であるこの方を送り込んで比叡山のトップである天台座主《てんだいざす》に据えます(『解説上手の若君』)。
そうです、護良親王は比叡山延暦寺《ひえいざんえんりゃくじ》の天台座主なのです。比叡山のことはとてもとても限られた字数で語れるものではありませんので、公式ホームページからほんの一部だけ紹介します。
日本の天台宗は、今から1200年前の延暦25年(806)、伝教大師最澄によって開かれた宗派です(「延暦寺について」の「歴史」の項目より)。
百人一首で有名な慈円は、比叡山について「世の中に山てふ山は多かれど、山とは比叡の御山(みやま)をぞいふ」と比叡山を日本一の山と崇め詠みました。
それは比叡山延暦寺が、世界の平和や平安を祈る寺院として、さらには国宝的人材育成の学問と修行の道場として、日本仏教各宗各派の祖師高僧を輩出し、日本仏教の母山と仰がれているからであります(「延暦寺について」の「延暦寺の概要」より)。
※慈円《じえん》…1155~1225鎌倉初期の天台宗の僧。関白藤原忠通の子で、九条兼実の弟。1192年以降4度天台座主に補せられる。兄とともに武家に好意を寄せ源頼朝と交わり、後鳥羽上皇の討幕計画に反対、1220年、史論『愚管抄』を著す。歌道にもすぐれ、家集に『拾玉集』がある(『日本史事典』)。
日本史の教科書でも有名な「僧兵」のインパクトが強すぎて、比叡山が仏教の一大聖地かつ修行道場であるということを忘れがちなのですが、天台座主は単なる七光やパワー系でなれるものではありません(そのために、慈円についても注で掲載しました)。
古典『太平記』において、護良親王(尊雲法親王《そんうんほうしんのう》)が初登場する場面では、「一を聞いて十を悟る御器量」であり、「消えなんとする法灯《ほっとう》を挑《かか》げ、絶えなんとする恵命《えみょう》を続《つ》がむ事、ただこの門主の御時なるべし」と、天台座主としての実力をおおいに期待された人物として描かれています。
しかしながら、父・後醍醐天皇の討幕計画に加担する中で、「ひとへに業学《ぎょうがく》を棄《す》て終《は》てさせ給ひて、明暮はただ武勇の御嗜《たしな》みの外は他事なし」として、ジャンプやスピードに優れた運動能力を発揮して剣術を究め、自らも比叡山も武装化していきます。
そうした点でも、「いまだかかる不思議の門主は御座《おわ》しまさず」と評されています(『太平記』の語り手は、護良親王がもともとそういうことが好きだったのかもしれないとも補足しています)。
ところで、皆さんは不思議に思いませんでしたか。
『逃げ上手の若君』第15話を読んだ限り、誰もが尊氏を好きになってしまうのに、護良親王はその正体が「怪物」だと見抜いていることを……。
ひとつには、護良親王が優れた宗教者であったからだという理由付けができそうです。
また、やはり反尊氏の諏訪頼重が神官(神官も宗教者ですね)であると同時に武将であるように、護良親王も高僧であり親王でありすぐれた武者でもあるという、明確な属性のない、境界を行き来する人間であり、そうした特殊な立場は、物事の本質を見極める力を強めるのかもしれません。
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しかしながら、古典『太平記』では、護良親王が足利尊氏を憎み敵視する、もっと切実な理由や動機が描かれています。
現在、国が一時に平定され、多くの人民が無事平穏をほめたたえるのは、陛下の立派ですみずみまでお照らしになる徳と、私の謀《はかりごと》の功によるものです。足利高氏は、たった一度の戦功によって、その野心を万人の上に及ぼそうとしています。
護良親王は、鎌倉幕府が滅びて後醍醐天皇による新政が始まっても比叡山に戻ることも京都に入ることもせずに、信貴山で武装を解くことなく仲間を集めていました。上記は、帝より送られた使者に対して護良親王が述べた最初の一言です。
私たち父子の二人で協力して開いた新しい世であるのに、どうして私ではなく高氏(尊氏)をお認めになるのですか、父上……。
今後の作品の展開もあるので詳しくは記さないでおきますが、護良親王は尊氏への対立を強めたことで孤立し、ついには捕らえられて鎌倉に送られ、最後は尊氏の弟・足利直義に殺害されて短い生涯を終えます。
当時の歴史書の一つによれば、捕らえられた護良親王は〝尊氏よりも父帝のこの仕打ちの方がうらめしい……〟と述べたと記されています。
護良親王がなぜそこまで後醍醐天皇にけむたがられたのかはよくわかりませんが、後醍醐天皇が従順な尊氏を好んだというのは事実のようです。険しい山々の熊野や吉野に潜伏して討幕を現実のものとしていった護良親王の心身のタフさは、不屈の精神で数々の難所を脱出してのけた後醍醐天皇によく似ているという印象を私は受けます。
後醍醐天皇は、自分と似た気性の激しい護良親王よりも、おおらかで風流も解した尊氏の方が気が合ったのかもしれません。
ただ父帝に認められたかった護良親王にとって、尊氏は父の愛を奪う〝怪物〟に他ならないと想像されるのです。
〔日本古典文学全集『太平記』(小学館)、ビギナーズ・クラシックス日本の古典『太平記』(角川ソフィア文庫)を参照しています。〕
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