【『逃げ上手の若君』全力応援!】(111)中先代の乱からわずか半年余り…「怒涛」の前半戦は足利尊氏VS新田義貞・楠木正成・北畠顕家!
時行が頼重に別れを告げて逃若党とともに鎌倉を去った後の、足利尊氏をめぐる天下の動静を描く『逃げ上手の若君』第111話のタイトルは「インターミッション1336①」。
「インターミッション(intermission)」を辞書〔ジーニアス英和&和英辞典〕で引いてみたところ、「❶休止,合間;中断《breakの上品な言い方》」「❷(劇場・試合などの)休憩時間,幕間(まくあい)」(❷は主にアメリカ英語の用法で、イギリス英語だとintervalを使うようです)とありました。
確かに、第111話での出来事は、中先代の乱が八月十九日に収束して、尊氏が九州で菊池武敏に対峙したのが翌年三月二日という、わずか半年余りの間に起きていることなのです。
限られた紙面でスピード感あふれる〝幕間〟の展開でしたが、これまで名前だけ登場していた人物が華やかに『逃げ若』デビュー(?)を飾ったり、そういう解釈ですか!?といった驚きもあり、やっぱり松井先生ってすごいわ…と唸りました。
そこで今回のこのシリーズですが、実はこれまで紹介してきた関連エピソードなどもけっこうあるのでそれらも振り返りつつ、主に古典『太平記』での足利尊氏・直義兄弟と、個人的に気になったあれこれに焦点を絞りたいと思います。
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「決着をつけよう尊氏! どっちが偉くて強いのか!!」
私は、『太平記』で活躍する新田義貞も、史実で明らかになってきている新田義貞も、『逃げ上手の若君』の新田義貞も、どの新田義貞もとても好きです。どういうわけか、どうあっても、彼は何とも憎めないキャラなのです。
「決着をつけよう」と暴れまくる義貞は「?」が極まっています。義貞は、後醍醐天皇より尊氏追討の命を受けているのに、ノリがヤ〇キーの喧嘩という…。
『太平記』では、尊氏と義貞の両者の間で諍いが起きて、お互いがお互いを誅伐させてほしいと後醍醐天皇に願い出ます。その奏上について、『逃げ上手の若君』第10巻の巻末で紹介されている坊門清忠が、〝義貞の指摘する尊氏の罪の方がいずれも重罪〟〝護良親王殺害が真実ならば決定的〟と指摘します。では、真相を確かめて…となった直後に事実が明るみに出て、後醍醐天皇の「何より 我が子護良親王を殺すとは!」「足利尊氏! 汝を謀反人として討伐する!」という事態となったのでした(その結果、追討軍の大将が新田義貞なのです)。ーー建武二(1335)年十一月のことです。
尊氏は「朝敵認定されちゃったよおぉぉ」と〝動揺〟していますが、どうやらこれは、相模川の戦い同様、尊氏の〝必勝スタイル〟のようですね。先に尊氏は、後醍醐天皇の書状か、あるいは返信をしようと思って自身が書いた書状か何かを握りつぶしていることからも、帝と対立する気で事を進めているのでしょう。
『太平記』によれば、義貞と戦うべく武士たちが尊氏のもとに集まるのですが、当の尊氏は出家をすると言って引きこもってしまいます。この部分、日本古典文学全集の現代語訳がわかりやすく、雰囲気が出ていると思ったので引用してみます。
「髪を剃り墨染の衣を着てでも、不忠の心はないということを、子孫のために明らかにしておきたい」と涙をぬぐっておっしゃるやいなや、後ろの襖障子を引いて閉じ、部屋の中に入ってしまわれた。こういう次第で、甲冑姿で参集した人々は、皆気まずい雰囲気になって退出し、「考えてもみなかったことだ」とささやかない者はいなかった。
※髪を剃り墨染の衣を着て…出家することを意味している。
なかなかに〝ガビーン〟な展開ですよね。しかし、ここは天才・松井先生、師直の髪形にからめての予想だにしなかった展開にしてやられました!
「身勝手で予測不能なカリスマは 何をしても大衆が勝手に良い方に解釈し 信仰する」
確かに、私はこのシリーズでもかつて、『太平記』では尊氏の評価をしあぐねているといったことを述べましたが、尊氏こそ究極の「婆娑羅」だったのかもしれません。『太平記』の語り手(書き手)は当時のエリート、超一流の頭脳の持ち主であろうとされていますが、その彼らの持つ知識ですらその実体がつかめず、同時代の価値観からおそろしいまでに逸脱した足利尊氏という存在は理解不能過ぎて、「大衆」に至ってはもはや「信仰」するしかなかったということではないでしょうか。
少し話を変えますが、長いこと足利尊氏とされてきた有名な絵が、最近の研究で高師直ではないかとされているのを皆さんご存じでしょうか。ーーこの絵です。
西へ向かって義貞と戦った直義が連戦連敗して鎌倉に逃げ落ちて来た時、尊氏は建長寺に入って出家寸前で、すでに髪は切ってしまっていました。そこで、直義は一計を案じて、〝出家をしたところで足利尊氏・直義兄弟は決して許さない〟という内容の偽綸旨を作ります。これを見た尊氏は、それならば仕方がないというので出家を諦めて戦う決心をしたというのですが、切ってしまった髪はどうにもならず、尊氏のこの髪型が目立たないように髻を切って従った者がたくさんいたと『太平記』は記しています。
もしこの絵が高師直だとしたら、その時に尊氏と同じ髪形にした様子を描いているのかもしれませんが、松井先生はその斜め上をいく解釈なのだと気づきました。つまり、師直は「髪を結う無駄な時間が煩わしいので」という合理的な理由だけで、当時は誰もしない格好悪い髪形を普段からしていた「婆娑羅」のキャラで貫かせているのです。
そしてさらに、「いいなそれ!」とためらいもなく唐突に真似をした尊氏の意味不明な行動があり、それを勝手に解釈して涙する武士たちがいて……もう滅茶苦茶です。そうした描写を用いて『逃げ上手の若君』では、相当な「婆娑羅」であるはずの師直であっても、尊氏と比較したらレベルが桁違いであることを見せつけているのですね。
「敗走する尊氏に… 《《勝った我が軍から兵が離反してついていく》》 尋常ではありえんことだ」
これは、楠木正成のセリフです(尊氏ヤバすぎる…にもかかわらず、正成が冷静でそれにも驚きを隠せず)。正成は、尊氏のことを「英雄にして怪物」と評していますが、おそらく、北畠顕家もわかっているようです。北畠顕家は第52話(「婆娑羅1335」)の魅摩の話の中で登場しています。
上記でも参考とした『ビジュアル日本の名将100』によれば、顕家は「尋常ならざる行軍速度で上洛を果たし、態勢整わぬ尊氏軍を強襲した。このとき尊氏軍は50万ともいわれる大軍を擁していたが、わずか2万の顕家軍に敗退。いったん丹波に引いた尊氏は、軍を再編成して摂津・豊島河原(現・大阪府箕面市周辺)で再び顕家に戦いを挑むも、これも顕家が完勝する。わずか19歳の顕家に尊氏は連敗し、九州へと落ちのびていったのだった」とあります。
また、顕家軍の旗に〝あれ?〟と思われた方もあるのではないでしょうか。一説によると、顕家は「風林火山」の旗印を用いており、武田信玄は顕家の「風のごとき行軍と、火のような攻撃」にあやかろうとしたのではないかという興味深い内容も紹介されていました。
そんな顕家ですが、「神の如きは汝の策よ 楠木正成」とその見事さを静かに讃えています。この正成の「策」についても、以前にこのシリーズでお話ししました。
そういえば、九州へ向かう尊氏が「赤松」と声をかけている坊主頭のガタイのいい男がいますね。わざと下の名前(法名)は呼ばせなかったのかなと思いました。なぜならば、彼の胸には〇印に白抜きで「心」となっていて、〝ああ、赤松円心かあ…〟と思いました。折しも、単行本第11巻が発売となって、「能力紹介ページ」に「護良親王」が登場していて、私はやるせない気持ちになりました。
円心は、護良親王とともに倒幕を成し遂げた一番の功労者とも言うべき人物だったのですが、建武の新政下で不当な扱いを受け、さらには護良親王の幽閉という後醍醐天皇の仕打ちに怒りを覚え、帝に敵対した尊氏に従います。ーーですが、『逃げ上手の若君』の作品世界の中では、円心が護良親王から離れてしまった理由はどうだったのかな…などと勘ぐってしまうのです。
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『太平記』においては、直義の偽綸旨で尊氏が出家をとどまった一方で、『逃げ上手の若君』の中には、直義が「討ち死に寸前です」と師直に告げられ、尊氏が血相を変えている場面があります。実際に『梅松論』では、「若頭殿(直義)命ヲ落ルル事アラバ、我又存命無益也」とあり、〝直義が死んでしまったら自分も生きている意味がない〟とまで尊氏は言っているというのですね。
その直義とともに落ちののびた九州で待ち構えるのは、『太平記』の中で、語り手もその強さと結束力を強調する一族である菊池武敏です。「筑前国・多々良浜」の戦いについては、すでにこのシリーズでも紹介しています。ネタバレでもいいという方は以下で予習をしていただければと思います。
ただ、最近つくづく思うのは、松井先生の〝神解釈〟の前には、ネタバレなんて概念は存在しないのではないかということです。私は諏訪、新田と同じくらい菊池推しなので、ぜひ武敏の汚名をそそいであげてほしいのですが…果たして。
〔日本古典文学全集『太平記』(小学館)、ビギナーズ・クラシックス日本の古典『太平記』(角川ソフィア文庫)、歴史魂編集部編『ビジュアル日本の名将100傑』(アスキー・メディアワークス)を参照しています。〕
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