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柄谷行人、あるいは父性の欠落(2)(2004)

2 とんちんかん
 『日本精神分析』の作者は、専門的訓練を受けていないものの、精神分析に多大な関心を寄せている。精神分析は二〇世紀の精神医学・臨床心理学を支配したと言ってよい。ただ、現代の精神医学の主流はその影響力を抜く傾向が顕著で、心理療法や臨床心理学などで流派の一つとして活動している。精神分析はもともと心因論に基づく病理学的・臨床的アプローチをとる。非人工的・全体的・深層的に現象を把握できる反面、主観的印象・解釈に偏りやすいという傾向がある。非専門家でも援用しやすいという誤解があり、この作者もそれを振り回している。

 経験科学では、相関的・測定論的と実験的・操作的の二つのアプローチがある。前者は多くの変数を扱えるため、多様な関係性を認識できる。ただし、因果関係を説明するのには向いておらず、問いに対して自己解答的な結論に陥りやすい。一方、後者は特定の変数に限定するため、データの妥当性を高められ、因果関係を明確化できる。個別研究には適しているものの、人工的な状況を前提にしている以上、その結論を一般化することは困難である。それぞれに長所と短所を持っているので、通常はアプローチを融合させて、対象に向かうが、複雑化・多様化した状況を反映して、変数を多くカバーできる相関的な方法論も好まれつつある。とは言うものの、枝葉末節による本質把握がやはり科学には不可欠だ。

 援用しつつも、元コロンビア大学客員教授は最先端の数学を使っていたわけではない。ダグラス・R・ホフスタッターが出版した『ゲーデル、エッシャー、バッハ』と同様、主に、一九二〇年代までの集合論を援用している。しかも、自己言及性のパラドックスと混同するなど不完全性定理の理解も十分ではない。

 最先端ではない数学を考察すること自体を冷笑すべきではない。谷山豊は、一九五五年、モジュラー形式と楕円曲線の美しくも深い関係を予想する。モジュラー形式は当時欧米では時代遅れと見なされ、なおかつ奇天烈として興味を覚えたのは彼の弟子の志村五郎だけだったものの、その二歳下の研究者が一〇年かけて一般化・洗練化させ、谷山=志村予想として発表している。この大胆な予想は、後に、アンドリュー・ワイルズがフェルマーの最終定理を証明する際にアリアドネの糸になっている。かび臭い遺産がお宝だということは決して少なくない。

 数学に限らず、コロンビア大学比較文学科教授の知識には誤解や曲解も少なくない。

 『アメリカにおけるヘーゲルの最初の弟子たち』を読んだことを、『批評とポスト・モダン』において、次のように回想している。

 彼らは十九世紀にドイツから中西部に亡命した“青年ヘーゲル派”であり、ドイツ語で活動した。そして、アメリカの思想史に何の痕跡も残さなかった。むしろ、アメリカの思想史において『ヘーゲルの最初の弟子』は、ウィリアム・ジェームスといった方がよいが、その後のプラグマティズムの流れでは、いうまでもなくヘーゲルの痕跡は消えている。

 しかし、この時期、セントルイスでG・W・F・ヘーゲルの『論理学』が広く読まれていたということはかなり以前に実証されている。かの都市は南北戦争の際の境界に位置し、合衆国の分裂を統合したいという知識人の願望から流行したのではないかと推察されている。また、彼らが主催していた雑誌からジョン・デューイがデビューしており、その偉大なプラグマティストの作品にははっきりとドイツ観念論の完成者の痕跡が残っている。「間違いは誰にも起こる。しかし無知な者だけがその間違いに固執する(Cuiusvis hominis est errare; nullius, nisi insipientis, perseverare in errore)」(マルクス・トゥッリウス・キケロ)。

 曲解や誤読を多く孕みながらも、八〇年代において、一九四一年生まれの批評家は知的なイコンである。彼のメルロ=ポンティ読解に影響を受けた批評家は、派手さのない文体ながら、論理的という点では、『現象学入門』や『自分を知るための哲学入門』、『ニーチェ入門』、『プラトン入門』は優れた入門書である。けれども、一九四七年生まれの批評家の後継者は登場していない。

 文芸批評家にはロジック型・レトリック型・ワード型の大きく三つのタイプがある。それらは読者に対して、論理性で説明するか、修辞性でアピールするか、キャッチ・コピーを掲げるかを指す。日本の文芸批評家は、伝統的な、この批評の対象も含めて、二番目が多く、先の地味な批評家は一番目、七〇年代のスーパースターは三番目のカテゴリーに入る。文の特徴は述語名詞文が多く、動詞文が少ない。それは事実よりも意見のを表わす。また、非妥協的で挑発的、論争的レトリックを用いる。それは初期の小林秀雄や吉本隆明など時代を席巻した批評家にしばしば見られる傾向である。「柄谷は意図して哲学の言語ゲームの外に、いわば『哲学の外部』に立っているからである。それゆえ、ウィットゲンシュタインやクリプキの『正しい』解釈などは、はなから彼の眼中にはないと言うべきである」(野家啓一『柄谷行人の批評と哲学』)。

 知識を体系的に学習したと言うよりも、断片的に手続き記憶として体得している。そのため、基礎的な理解がしばしばかけている。西洋政治理論の伝統の則りながら、社会契約論や啓蒙主義、社会主義を論じることによって、従来の蓄積を共通基盤とした上でその可能性を拡張できるものだ。それを無視ないし軽視しては恣意的意見であり、原理主義に見られる主観的暴力主義である。

 『探求Ⅱ』で世界宗教を論じながら、それが共同体の間にあるという説明にとどまる。世界宗教を伝統宗教と比較してその本質を理解しているとは思えない。伝統宗教は共同体に内属しているため、外部がなく、此岸と彼岸が連続している。一方、世界宗教は共同体に内属していないので、此岸と彼岸の間に裁きの場があり、両社は非連続である。信者は共同体の生活規範を共有していないから、共通理解として聖典が必要とされる。理想はあの世なので、それはこの世を相対化し、政治はセカンド・ベストの実現を目指すことを目的とする。こうした基礎的知識も持ち合わせていない。理解が断片的であって、主張が新たな地平の開拓につながらない。

 今日でも読みうる批評は個別の文学昨作品や作家をめぐる考察だけである。文学史を含めそれ以外は執筆・公表された当時の時代的・社会的気分を知るためにのみ価値がある。

Let him rock a little
Let him swinging
He is sorry
‘Cos there is something that
He couldn’t stay at all
Let him shake a little
Let him step a little
Let him worry
Because it(s Asylums In Jerusalem
Don’t let him worry, no
With his hammer and his popsicle,
They’ll put him in a hospital for good
Don’t let that boy go
Don’t let him go at all
Oh, oh, oh, oh, at all.
(Scritti Politti ”Asylums In Jerusalem”)

 「柄谷のおもしろいところは、何をやっても愛嬌があって、ちょっととんちんかんなようで、なにかしらこちらがう-んと考えさせられるというところです。彼はムチャクチャ言っても済んじゃうわけです。『あの頃、ちょっとぼく、頭がおかしくなっててね』とか言うと、みんな喜んじゃうんです。そういうイメージがあるから、かなりきついことを言っても愛嬌があるんです」(森毅『ゆきあたりばったり文学談義』)。


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