クリスチアーネ、あるいはヘーゲルのアンティゴネ(3)(2020)
第4章 子どもの教育と婚姻
ところが、ヘーゲルのその後は順調にいかない。1806年10月のナポレオン軍の前にプロイセンが降伏したことに伴い、イエーナ大学が閉鎖になり、ヘーゲルは失職してしまう。父の遺産が入ってからも大学卒業以来続いていた困窮生活を抜け出せない。そんな時、バンベルクの行政官で、同郷の友人フリードリヒ・イマヌエル・ニートハンマー(Friedrich Immanuel Niethammer)が苦境のヘーゲルに『バンベルク・ツァイトゥンク(Bamberger Zeitung)』紙の編集の仕事を紹介する。バンベルクは、現在、バイエルン州オーバーフランケン行政管区の郡独立市で、バンベルク郡の郡庁所在地であり、ビールの街として知られている。母の影響から、ヘーゲルは少年時代より時事問題に関心を寄せており、この仕事を承諾する。ヘーゲルはこのバンベルクで1807年3月から1808年11月までジャーナリスト生活を送る。ただ、ヘーゲルは親ナポレオン派である。戦時下の厳しい言論統制により、その彼が自由に編集したり、論説したりできる状況にはなく、不満を募らせている。「早起きして、新聞を読むことは、現実主義的な朝の祈りである」(ヘーゲル)。
そんな時、バイエルン王国ミュンヘンに移ったニートハンマーからニュルンベルクのエギディウス・ギムナジウム(Egidius Gymnasium)の校長をやらないかという誘いがヘーゲルの元に届く。ニートハンマーはバイエルンの教務局の高官に就任、教育制度改革を進め、ギムナジウムのカリキュラムをフランス式の新人文主義教育、すなわち啓蒙主義に基づく教養主義へと再編成することを試みている。ヘーゲルは、大学卒業後に家庭教師をしており、中等教育を教えた経験がある。そうした経歴も考慮してニートハンマーはこの改革を教育現場で実施する役目をヘーゲルに依頼したというわけだ。
ヘーゲルは校長として学校運営に携わりながら、改革が求める哲学や論理学などの新設教科の指導にも当たっている。その際、ヘーゲルは14~19歳の生徒たちのための教科書の執筆を始める。これは専門家に向けた学術論文と内容も形式も異なる。10代のための新しい時代にふさわしい教養学習が目的であるので、広い領域を体系的に整理してわかりやすく書く必要がある。それには研究者ではなく、教育者としての姿勢が求められる。そうした目的から表わされた代表的著作が『大論理学(Wissenschaft der Logik)』(1816)である。
ところが、これが出版されると、思わぬ反応が起きる。この教科書がアカデミズムの目に留まり、大学から正教授の話がヘーゲルの元に寄せられる。1816年秋、ヘーゲルはハイデルベルク大学の正教授に就任、家族そろってニュルンベルクを後にする。
もはやフランス革命とナポレオン戦争の時代は終わり、ヨーロッパは1814~15年に開催されたウィーン会議による国際秩序の時代を迎えている。欧州全体を巻きこんだナポレオン戦争の再現を避ける「力の均衡」と呼ばれる外交・安全保障政策を各国が共有する新しい国際政治の時代である。反面、自由主義を始めとする近代思想を抑圧し、フランス革命以前を指向する反動が国内政治を支配している。情熱に代わって俗物根性が社会を闊歩する。
今「家族そろって」と言ったが、ニュルンベルクに移ってから約3年後の1811年9月、ヘーゲルはその都市貴族トゥーハー家のマリー・ヘレナ・ズザンナ・フォン・トゥーハー(Marie Helena Susanna von Tucher)と結婚している。彼女は1791年生まれで、当時41歳のヘーゲルの21歳下である。
ヘーゲルの結婚が遅れた最大の理由は経済的状況である。大学卒業以来、収入は不安定で、借金もしている。
しかし、この結婚を喜ばない人もいる。その一人がクリスチアナ・ブルクハルト(Christiana Burkhardt)である。実は、ヘーゲルには彼女との間にルードヴィヒという婚外子がいる。ヘーゲルは1801~07年までイエーナに住んでいたが、寄宿先の主人が彼女である。広津和郎を思い起こさせる話だ。ヘーゲルはこの仕立屋の未亡人に結婚を持ち掛けたものの、守らず、ルードヴィヒが生まれた1カ月もしないうちに、バンベルクに引っ越している。
最初から結婚する気がなかったかどうかはわからない。ただ、すでに述べた通り、ヘーゲルの置かれた状況が変わったことは確かだ。クリスチアナが妊娠したのはヘーゲルが私講師だった時期である。しかし、戦争により大学閉鎖、失業中にルードヴィヒが生まれ、バンベルクに仕事が見つかり、ヘーゲルはイエーナを去っている。結婚して家族として一緒にバンベルクに連れて行ってもよさそうなものだが、彼はそうしていない。ただ、ヘーゲルは縁を切ったわけではなく、クリスチアナに養育費を払っている。もっとも、遅れることもあり、彼は言い訳の手紙を彼女に書き送っている。
そのクリスチアナがニュルンベルクの結婚話を聞きつけ、過去を蒸し返し、婚約不履行したと騒ぎ出す。もちろん、子どもを産ませなから離れた4年後に金持ちの若い娘と結婚する41歳のギムナジウムの校長と彼女がよりを戻したかったとは思えない。しかし、考えてみれば彼女にとって癪に障る話だ。そっちにも事情があると思うが、こっちにもいろいろある。養育費の遅れにも耐えつつ、シングルマザーとして子育てを頑張ってきた苦労を思い返すと、あの男が財産のある若い娘と結婚することに腹が立つ。そういうところだろう。
すったもんだの挙げ句、1816年にハイデルベルク大学の正教授に就任したのを機にヘーゲルはルートヴィヒを家族の一員に招き入れる。その時、彼にはすでに二人の息子が生まれている。ヘーゲルは勤務大学の移籍に伴う転居が多かったものの、その後もしばらく5人家族で暮らしている。
皇帝が―この世界の精神が敵地偵察のために馬上ゆたかに街を出ていくのを見ました。このような個人を目の当たりに見ることは、じつに何とも言えない気持ちです。この個人こそ、この一地点に集結して馬上にまたがっていながら、しかも世界をわしづかみにして、これを支配しています。……プロイセン軍の運命は、もちろん、はじめからこれぐらいのところであろうとは予想されていましたが、しかし、……この進撃はこの超人にしてはじめて可能です。この人を驚嘆しないことは不可能です。
(ヘーゲル)
ヘーゲル最初の子ゲオルク・ルードヴィヒ・フリードリヒ(Georg Ludwig Friedrich)は1807年2月5日にイエーナで生まれている。前年の10月14日のイエーナ・アウエルシュタットの戦いで勝利したフランスの皇帝ナポレオン1世がイエーナを凱旋する姿を目撃したヘーゲルが「馬上の世界精神」とつぶやいたことはあまりにも有名である。ルードヴィヒには6歳上の異父姉のテレース(Theres)がいるが、彼の幼い時期の生活はよくわかっていない。
ルードヴィヒがヘーゲルに引き取られたことが本当によかったかどうか判断することは困難である。ただ、疎遠だった父に突然引き取られ、そこには新しい母と幼い弟がいる。9歳の子の発達には難しい環境であることは確かだ。父への愛憎や母と呼ぶことの違和感、弟に対する嫉妬などにルードヴィヒは思い悩んだことだろう。彼はこの新しい家庭になじめず、特に、弟たちとはうまくいかない。
ところが、ルードヴィヒはギムナジウムでの成績がよく、父ヘーゲルは驚き、それに満足している。1818年、ヘーゲルはベルリン大学教授に招待され、ルードヴィヒも転校するが、そこでも成績がよい。ただ、ルードヴィヒは、弟たちに比べて、自分の教育に費やすカネが少ないと父に不平を漏らすようになる。ルードヴィヒが将来医者になりたいと明かすと、父ヘーゲルはカネがかかると反対、他の家族も彼にこれ以上費やす経済的余裕はないという考えである。ルードヴィヒは中退し、徒弟制の世界に入るが、1825年、そこで使い込みをしてしまう。将来の夢を諦めさせられたため、18歳の少年の心が荒れていたと推測できよう。しかし、それを知った父は激怒、ルードヴィヒを勘当し、「ヘーゲル」姓を名乗ることを禁じる。そのため、ルードヴィヒは、以後、母親の旧姓「フィッシャー(Fischer)」を使うようになる。
ヘーゲルはルードヴィヒと完全に縁を切った分けではない。ルードヴィヒはクリスチアーネが住むシュトゥッツガルトに行くように父に言われ、そこで生計を立てることになる。クリスチアーネは愛する兄の最初の子であるルードヴィヒにあれこれ世話をしたことだろう。しかし、ここでも雇用主ともめるなどトラブルを起こしてしまう。ルードヴィヒは時計など持っていた僅かなものを売り、それでオランダに向かう。
1821~1837年、オランダ領東インド(現インドネシア)のミナンカバウ地方(現西スマトラ州)において、ワッハーブ派に影響されたイマム・ボンジョルが指揮するパドリ派とそれに対抗するアダット派との間でパトリ戦争が繰り広げられる。パトリ派はイスラム原理主義を主張するのみならず、オランダの植民地政策にも反対する。事態収拾を目的にオランダはアダット派を支援、本国からの増派を決め、そのための兵士を募集する。
入隊すれば衣食住には困らないし、給料も出る。しかも、契約期間は6年間で、それが終わればかなりのカネが手に入る。人生をやり直すチャンスだ。ルードヴィヒはそう考えたことだろう。唯一の気がかりは姉のテレースだけで、彼は彼女にいくばかりかのカネを渡している。また、父にも手紙を書く。せっかくの関係を壊してしまったが、許して欲しいとも、生き方を変えたいとも思っていないので、罪悪感はない。そんな彼なりの愛情のこもった手紙を読んだけれども、父は入隊をとめようとしない。
募集に応じたルードヴィヒは1825年8月にオランダを出航、翌年1月にバタビア(現ジャカルタ)に到着する。その後、彼はインドネシア各地を転戦している。しかし、1831年8月28日、ルートヴィヒ・フィッシャーはマラリアにより息を引き取る。マラリア(Malaria)は、熱帯から亜熱帯に広く分布するマラリア原虫による感染症である。アカイエカを媒介にして感染し、高熱や頭痛、吐き気などの症状を呈する。悪性の場合は意識障害や腎不全などを起こし死亡する。除隊まで残り2カ月というところでの死亡である。再出発はかなわぬまま、また3ヵ月後の父の死を知ることなく、ルードヴィヒはロマン主義のような人生を閉じている。「この世で情熱なしに達成された偉大なことなどない」(ヘーゲル)。
この国の祭壇は、死屍を喰った犬や鳥たちのまき散らす悪臭で汚されている。そういう形で死屍は、それにふさわしく原始的な個体〔大地〕に送り帰されて、意識なき一般に高められているのではなく、地上の現実の国に止まっており、そこでいま、神々のおきての力となって、自覚的、現実的な一般性をもつことになっている。死屍は、自らの国家共同体に敵対の態度をとって、立ちあがり、それを亡ぼす。つまり家族の敬愛という共同体の力をもっていないで、これを破壊してしまった国家共同体を亡ぼすのである。
(『精神現象学』)